グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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<犬のこと>閉じ込められることに対する動物の恐怖を共感する

今のニュースで気がかりなことといえば、やはりクルーズ船に乗っていらしゃる方のウイルス感染が広がりを見せているということです。

ウイルスが数が増えれば増えるほど増殖力は倍々以上となり、脅威は高まります。

同時に狭い船室に閉じ込められて数週間を過ごすことになる人々の脅威とストレスははかりしれないものだと思います。

一刻も早く、同時にできるだけ安全な方法で早く日常生活を取り戻されることを祈るばかりです。


人を含むすべての動物にとって狭い場所に閉じ込められるというのは、本当に辛いことです。

そう思うと、都会の犬たちが狭い室内に閉じ込められた状態で毎日を過ごしているころが心苦しく感じられます。


日本が欧米と大きく違うのは、ひとりあたりのスペースが都市ではとても狭いということです。

もちろんアメリカでも、ニューヨークやシカゴのマンションは日本とたいして変わらないスペースです。

ですがこうした場所はソーホースタイルのビジネスにふさわしい場所であって、子どもたちが成長するのに適した場所であるとは言えません。

それにニューヨークでもシカゴでも、車で1時間も走れば、大草原、湖、山が広がっています。

人間が都会から脱出することなどたやすいことなのです。


日本の場合には国土面積に対して人口が多い上に小さい世帯が多くなり一世帯あたりの空間は都市部では制限されます。

室内にかなり広いリビングがあるマンションであっても、庭となるとほとんど利用されていないというのが実情です。

この都市空間で犬と暮らそうと思えば、犬は室内に閉じ込められた状態になるということなのです。


一日中部屋の中でひとりですることもなく過ごすことは、狭い船室でストレスをかかえて過ごす方々と変わりません。

犬の場合には未来を憂えることはできないのですが、未来に希望を見出すこともできません。

犬にとっては今ここにあるものがすべて、そうこれが現実なのです。

この室内拘束という犬の飼育環境ですが、福岡や佐賀でも都心では当たり前のこととなりました。

そのことで犬という本来は人よりももっと動物的な生き物が苦しんでいるということには見て見ぬふりがいつかは通用しなくなる時が来ます。

病気になるのか気がおかしくなるのか精神的に不安定になるのか、どちらにしても犬の輝きや失せていくでしょう。

自分にできることはないか、毎日ずーっと考えています。

即効性のあることは嫌いですが、この夏はある特別クラスで犬と生徒さんをサポートできればと思案中です。

近々お知らせします。

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<犬のこと>猟師にとって一番大切なもの

先日から猟の話題が増えています。

先に書いたのですがダンナくんが罠猟の免許取得のために猛勉強しており、同時に鉄砲猟のテキストも学んでいていろいろと細かな情報を私に与えてくれるためです。

またテキストに書いてあったある秘訣を教えてもらいました。

猟を成功させるためには3つ重要なことがあるらしい。

下からいうと第三位は「鉄砲の技」

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというわけにはいかないようです。

第二位は「足」

なるほどですね。

山を歩いて歩いて歩いてなんぼというところですね。

第三位はなんと「犬」だそうです。

猟は犬の性能ひとつでどうなるかが決まるということらしいのです。

でも犬の良し悪しといっても、犬の猟犬としての素質だけではありません。

猟師とどのように連携できるのか、気持ちが通じ合っているかどうかなど日本の猟犬に必要なものがたくさんあります。

そこには「人」と「犬」のつながりが見えてきて、なんとも深いなあと思います。

ダンナくんの方はそんなことが猟のテキストに書いてあったことに大変驚いていました。

今までダンナくんの中では犬がそんなに重要な役割を果たしていたとは思っていなかったからだと思います。

猟に犬、いればいいけどいなくてもねえという程度だったのかもしれません。

阿吽の呼吸でつながる猟犬と猟師の姿。

日本では消え去る文化のひとつに入っているかもしれません。

家庭で犬と暮らしている方々は猟犬などあまり関心を持たれないでしょう。

ですが犬にも「ルーツ」というものがあって、犬にとっても人にとってもそれはとても大切だということをお伝えしておきます。

犬はそもそもオオカミだったのかとか?犬はどうして人と暮らすようになったのかということを考えたり知ったりすることは、イヌという動物そのものを知る大切な鍵なのです。

日本では猟犬という存在は人と犬のかかわりの歴史の中で排除して考えることはできません。

同時にこの猟犬という存在が、現在にその一部では道具のように扱われ始めているという事実もあります。

猟期が終わると捨てられる猟犬というのが存在するのも事実です。

これらの事実は私たち日本人とイヌが長い時間をかけてつくっていた大切な歴史を否定してしまうものです。

だから猟犬といってひとくくりにして嫌悪的にならず、真の猟犬の姿とは何かということろに焦点をあてて見定めていく必要があるのだと思います。

山渓から素敵な本が出ています。
写真右手の本です。ぜひご覧になってください。

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<犬のこと>犬の食欲が落ちたら考えてあげたいこといろいろ

犬のゴハンにまつわるトラブルといえば、ゴハンの前や最中や後に犬がかみつきをするというものが昔は多かったと思います。

ところが、最近のゴハンにまつわるトラブルは、どちらかというとゴハンを食べないということです。

犬はバクバクとゴハンを食べるのが当たり前だと思われているのに、ゴハンを食べないということがあることすらあまり知られていません。

食べるのが当たり前だと思われている犬がゴハンを食べないのですから、飼い主としては心配なところです。

ドッグフードや手作りゴハンをいろいろと変えながら、犬が食べそうな食べ物を探していきますが、フードジプシーなるものに陥ってしまうこともあります。

ゴハンを美味しく食べることができない理由のひとつめは、ドライフードに添加物が多すぎることでおきます。

添加物は化学薬品と同じようなものなので人工的な臭みがあります。

この薬剤の臭いを嗅ぎつけると動物は自然に拒否を示します。

小さな犬の中にはドライフードが大きすぎてかみ砕けないことがあります。

噛み合わせが悪くてかたいものを食べられない犬もいます。

自然な素材で本犬の口のサイズや形にあったものであれば、犬は喜んで食べてくれるでしょう。


そうであっても食べないということであれば、犬の活動量などの生活習慣を見直してみましょう。

屋外でしっかりと活動すればお腹がすくのでゴハンを食べたくなります。

お散歩の時間が長くても、緊張した不安な散歩を続けると逃走モードが高まってしまい胃が委縮してしまうので食事を受け付けることができません。

食事は受け付けないばかりでなく、ストレスがかかると食欲が過剰になります。

ストレスで乱れた食欲による食事は満たされることがなく、食べても食べても次が食べなくなる食事になります。

このあたりは人と同じですから思い当たることがあるかもしれません。

ストレスによって胃酸が過多になったり足りなくなったりするのです。

犬のストレスは生活環境によって生じます。

犬からしてみれば普通のことが、今の都会の生活では得られにくいからです。

太陽とか土とか風とか、そうした普通のことが得られなくなっています。

それが犬の最大のストレスなのです。

もしこうした自然と接しないことを犬がなんとも思わなくなってしまったら、犬は本当にバカになってしまったのだと、人がバカにさせてしまったのであるということでしょう。

自然とのつながりをくれるのが犬という動物です。

犬の食事が上手くいかなかったら、生活全体を見直してみることをおすすめします。

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<自然のこと>猟・犬・求・ム!

野生動物は繁殖期に入ると食べ物を探す行動が活発になります。

グッドボーイハート七山でもオポのお墓周辺から駐車場の近くまで、イノシシが土を掘り返した跡がたくさんあります。

トレッキングに来られる生徒さんはびっくりされることもありますが、例年のことなので特に驚くこともありません。

オポが作っていた見えない境界線はオポがいなくなるととたんになくなってしまいました。

イノシシたちは平気で人と犬の生活空間に入ってきてしまいます。

お互いのテリトリーだと思い込んでいるところで突然接触をすると危険なことも考えられます。

となると、イノシシたちに対して警告を与えていく必要があります。

いろいろと方法はありますが、一番適切な方法は境界線上に罠をはり入ってくるイノシシを捕まえるということです。

もちろん捕まえたイノシシは食べます。

捕まえたら学習するからリリース(解放)すればいいではないかという考え方もあると思います。

それは価値観の違いではありますが、捕食の体系を維持するためには捕食者として数の増え過ぎたものは狩って食べる。

これが人間としてできることのひとつでもあります。

むしろ里山に住む人としてやらなければいけないことのひとつではないかと思っています。

最近はジビエ流行りでもあって、イノシシやシカを食べることを野蛮だとは思われなくなりました。

イノシシやシカは適切に捕って食べなければ、その数が増え過ぎて最も害を被るのはその動物たちの方なのです


手始めにダンナくんが敷地内にセンサーカメラを設置してイノシシの活動を監視しています。

いくつかの場所でイノシシ、アナグマが通り過ぎる姿を確認しました。

自分は夜でも昼でも実際にイノシシが歩いているのを見たり、アナグマが納屋に子供を産んで育てていたのを体験したのでビデオを見てもそれほど興奮はしません。

ですが平地で育ったダンナくんの方は、すぐそこの場を大型の野生動物が通過する姿を撮影した画面で確認してかなりテンションが上がっていました。

男女という性別の違いもあるのかもしれません。

男性には捕食者としてのDNAが強く残っているのでしょうね。

犬もオスとメスではオスの方が主に狩りの役割を担います。

もちろんメスも狩りはしますが、メスたちには子育てという大切な任務がありますから、そのためにはオスがしっかりと稼いでくるということです。

狩りを仕事にあてがえば男性がちゃんと働いてくれると女性は安定してくるという理論は動物らしいルールです。

この動物のいた気配をカメラがなくても知ってしまうのがいまみなさんのそばに寝ている「犬」という動物です。

山を歩いていると地面をクンクンと鼻を全開にして臭いを嗅ぎ分けている犬の姿を見ると、一体どんな動物がいつそこにいたのだろうと想像を膨らませます。

複数の犬がいても臭いを嗅ぎまわる場は大体同じ場所です。

犬と犬は臭い嗅ぎをとおして「なあ」「うん」とお互いに情報を共有しているのに、私だけがそれを知ることができないのが残念です。

でも私には犬の行動を分析する力があります。

犬の嗅ぎ分け方や嗅いだあとの反応や犬の体の動きを見ていると、そのにおいの主が大きな動物なのか小物なのかはある程度想像がつきます。

大きな動物の方が興奮度が高く緊張感も高まる感じが伝わってくるからです。

こうして犬から情報を得ることはトレッキング中の楽しみのひとつです。

自分たちの鼻という武器を最大限に利用して人に協力してくれる犬という動物、狩りには欠かせない友であることは言うまでもありません。

イノシシを七山で狩る自分の中でももうひとつの目的は「そうしないと動物が馬鹿になるから」なのです。

戦う相手も誰もおらずただ柵で仕切られただけで安穏と生きていく動物は、バカになってしまいます。

罠をつくれば罠にかかるのは警戒心が低く衝動性の高いバカな動物です。

罠という存在を知って考えて行動し頭脳を発達させていくことはイノシシたちの将来にとっては利益になるものです。

要するに必要以上に捕らない、バランスを考えて捕るというルールが絶対であるとは思います。

人間は捕食者の頂点なのです。

自分を知って行動を抑制できるのは自分だけしかないと思います。

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Posted in 日々のこと, 犬のこと, 自然のこと

<人イヌにあう>犬の子供っぽい可愛らしさは悪夢にもなる

先日のブログ「<人イヌにあう>服従するという言葉の意味を理解できないわたしたち人間と犬」の続きになります。

このブログを読む前にひとつ前のブログをご覧になると話の流れがわかりやすいです。

イヌにとって人と上手く暮らしいく上で大切な二つの特質として、ローレンツが挙げているのは次の二つです。

ひとつは犬が動物としてはとても幼稚性を継続させているということ。

二つ目は犬の群れに従属し主従関係を大切にするということ。

この二つの性質については飼い主としては理解しやすいものだと思います。

どちらもイヌが人と暮らしていく上で重要な性質ですが、同時にこの二つの性質は人がイヌと暮らしていく上でも重要だということを強調しておきます。

このふたつの性質をどちらも欠いたイヌについてローレンツは次のように述べています。

引用:
たいていの性質上の特質と同じように、子どもっぽさは、その程度によって長所にも短所にもなるものである。

それを完全に欠いているイヌの独立性は、心理学的には興味深いかもしれないが、飼い主にはたいして喜びをあたえてくれない。

というのは、このイヌたちは手に負えない放浪者で、ごくたまにしか家に居つかず、飼い主の家を尊重しないからであるーこのような場合、飼い主を「主人」というわけにはいかない。

年をとるにつれて、このようなイヌは危険なものになりがちである。

典型的なイヌの従順さを欠いているため、かれらは他のイヌにたいしてそうするように、人に噛みついたり脅かして追っ払ってしまうことを「なんとも思わない」からである。

引用終わり

こうしたイヌは一般的に家庭犬としては不向きであり、管理することすら難しいので家庭犬として繁殖されることもありません。

人が飼うことの難しい野犬にはこの性質が非常に濃く出ていて、彼らは人に対して怯えを示すばかりでなく、室内でマーキングしたりモノを壊したり、すみっこに固まっていたりする行動を示します。

保護施設でも人になつきにくい性質が子犬のころから出ていますので、一般的な飼い主の手に渡ることは珍しい犬といえます。

ここで、みなさんは「やっぱり犬は誰でも尾を振って近づいてきて飛びついたりお腹をみせたりすり寄っていく犬がいいのよね」と思われるかもしれません。

室内で犬を飼う方、特に小型犬や大型犬でも室内飼育をすすめられるような犬と暮らしている飼い主の多くがイヌに求めているのはひとつめの「犬の幼稚性」であるからです。

犬が誰にでもなつきやすく、興奮しやすく、すり寄っていきやすく、そして飛びついたり甘えたりする行為が最近は好まれるようです。

こうした気質は外で番犬とする上では決して奨励される行為ではないからです。

家の庭や玄関先に番をはる犬は、特定の人にはなつきやすいけれど、他の人になつくのには時間がかかるという性質をもつからこそ番犬となるからです。

二つ目の性質は室内飼育の犬たちには求められないため、幼稚性だけを高めた犬が増えていきます。

こうした犬についてローレンツはこう述べています。


引用:

この放浪性やそれにともなう主人や場所にたいする忠節の欠如を非難するからには、私は、子どもっぽい依存心が病的なまでに残っている場合には、それが完全に欠如しているときに起こるのと驚くほどよく似た結果を示すことがあることをつけ加えておかなければいけない。

引用終わり

この文章を10回は読んでください。

こうした文章は文字で追うことはできても、頭の中にいれるのには時間がかかります。

人は自分が拒否をしたい内容が書いてあるとそれを排除してしまおうという生理的反応を起こします。

子供っぽい依存心が残っている、というだけならまだしも、「病的なまでに」という原文がどのような表現かは不明ですが、病的なまでに子供っぽい犬たちを私はたくさん見てきました。

さらにつづきます。

引用:

たいていの飼いイヌの場合、子どもっぽさがある程度残っていることがその忠節の源となるのだが、それのゆきすぎはまさに反対の結果を導きだすことになるのである。

このようなイヌは、主人に対して極端な愛情をみせるが、同じく誰にたいしてもそうするのだ。

前著『ソロモンの指輪』で、私は、このタイプのイヌを、どんな男でも「おじさん」と呼び、他人にみさかいのない馴れ慣れしさを示して困惑させる、甘やかされた子どもとくらべてみたのもである。

このようなイヌは自分の主人を知らないのではない。

その反対に彼は喜んで主人を迎え、他人にたいする以上に、あふれるばかりの愛情で主人を遇するのだが、その直後には、近づいてくるつぎの人物に向かって走り去る気持ちになるのである。

引用終わり

誰に対してでも緊張せずに接することができることと、誰に対してでもむかっていってとびついたり体当たりしたり体を摺り寄せることは違うのです。

ローレンツがここで述べている幼稚性の抜けないイヌは、人をみると走り出しとびつき、あまがみや鼻ならしをするイヌのことです。

引用:

すべての人間にたいして示すこのみさかいなしの馴れ慣れしさが病的に残っている幼児性の結果であることは、この種のイヌのあらゆる行動で立証される。

彼らはいつでもふざけすぎるし、生まれてから一年もたつとふつうのイヌなら落ち着いてしまうころにも、主人の靴を噛んだり、カーテンをひっぱってめちゃめちゃにしたりすることをやめないのである。

とりわけ彼らは、ふつうのイヌならば数ヶ月後には健全な自信にとってかわられるべき、奴隷のような従順さをもちつづける。

すべての見知らぬ人にたいしてはお義理で吠えるだろうが、厳しい口調で呼びかけられるとこびへつらうように仰向けにひっくりかえる。

そして引き綱(リード)を手にしている者を、誰でも自分の恐れ多い主人として受け入れるのである。

引用終わり

すでにこの状態に入ると室内でいろいろと自分の居場所を獲得するこの幼稚な犬たちは飼い主の膝やその周辺にまとわりついているため、決していつもいたずらをするわけではありません。

行動としては飼い主に手をかけたりかまってくれと要求したりとんだり跳ねたりするのです。

しかも何かあるとひっくり返ったりして自分が子供であることをアピールするあたりはローレンツも指摘しています。

イヌの幼稚性=子供っぽさの強さは、それが完全に欠如しているときと同じような結果を示すというローレンツの言葉がすべてを物語っていると私も思います。

みなさんはどう思われるのか。ぜひご意見ください。

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Posted in 人イヌにあう, 犬のこと

<人イヌにあう>服従するという言葉の意味を理解できないわたしたち人間と犬

ブログはグッドボーイハートを知っていただくためのツールであると同時に
自分が考えたり思ったりしたことを整理するための場でもあります。

とはいえ、考えがある程度はまとまらないと一定の文章にはなりません。

考えていることやコトバにしたことは頭の中にあふれていますが、それをコトバにするまでに必要な時間がかなりかかってしまいます。

日常生活の中でやらなければいけない業務が押し寄せてくると、考えをまとめる時間もなくブログの更新も遅れます。

長くなりましたが、ブログの更新が遅れている言い訳ということです。

それで今日はなんども話題しているけれど、なかなか言葉では伝えられない服従という言葉の意味と行動について尊敬するローレンツに助けを借ります。

ローレンツの「人イヌにあう」の三章には絶対に必読です。

三章は「忠節の二つの起源」です。

犬の「忠節」などという言葉をきくとかの銅像にまでなった秋田犬を思い出す方が多いでしょうが少し切り離して考えてみましょう。

最初の引用部は、イヌの忠節=人に対する信頼のふたつの起源についての仮説です。

引用

イヌの主人にたいする信頼は、二つのまったく異なった起源をもっている。

一つは主として、若い野生のイヌをその母親に結びつけるきずなが生涯持続することによるものであり、飼い犬の場合には幼い時期の気質の一部が習性保持されることによるのである。

忠節のもう一つの根源は、野生のイヌを群れのリーダーに結びつける群れへの忠誠、あるいは群れの個々のメンバーがおたがいに感じる愛着から生まれるものである。

引用終わり

つまりは、イヌの人に対する忠実な態度は以下の二つが起源だとローレンツはいいます。

1 親子関係

2 群れへの忠誠

全くもってその通りであってこの仮説を覆す学者はまだ知りません。

親子関係を強調する場合が強い傾向があったり、群れを重んじる傾向があったとしても、まずはこの二つなのです。

ここからは持論ですが、この二つは移行していくように見えて実際には1がベースとなる上に2が生じて関係が継続しています。

子犬のころに人がイヌを迎えたときに、まずは里親という形で文字通り親として子犬のお世話をします。

子犬は人のことを次第に理解しながら、人の親の保護のもとで育てられていきます。

同時に子犬や幼少のころから親犬に対して、群れのリーダーに示すような服従性のある行動を示しています。

それはもはや日本では見られなくなりましたが、あいさつができるようになった幼稚園生くらいの子供が母親や父親に対して両手をついて「おはようございます。」というような姿なのです。

ただイヌには野生のイヌ科動物には見られない、家畜化された特性があります。

それは丸い頭や巻いた尾垂れた耳などみなさんにはなじみのあるイヌの顔ですが、野生の動物では若い時期にしか見られない容貌です。

家畜化によって得られた子供っぽさは人に対する親子関係を継続させる土台となるための特質ですが同時に危険性をはらんでいることもローレンツは指摘します。

引用

たいていの性格上の特質と同じように、子どもっぽさは、その程度によって長所にも欠点にもなるものである。

それを完全に欠いているイヌの独立性は、心理学的には興味深いかもしれないが、飼い主にはたいして喜びを与えてくれない。

というのは、このイヌたちは手に負えない放浪者で、ごくたまにしか家に居つかず、飼い主の家を尊重しないからである

このような場合、飼い主を「主人」というわけにはいかない。
年をとるにつれて、このようなイヌは危険なものになりがちである。

典型的なイヌの従順さを欠いているため…

引用

と続いていくわけですがここでコメントいれます。

イヌには群れに所属するという基本的な服従性があるが、それは若い犬の従順さが基盤になって支えられているので、前者だけではうまくいかないということです。

人とイヌとの関係に大切なことだからこそ家畜化されたイヌたちの容姿にその情報が刻まれているのです。

もしイヌだけの群れであったとしても、独立心の高すぎる性質ではイヌはグループの中には入れません。こうしたイヌ科動物は日常的に単独行動をするようになりそのような個性をもつイヌが出てくることも不思議ではありません。

こうした個性による服従性のばらつきはローレンツの時代にも通常おきていたようで、どちらも併せ持つ理想の忠実なイヌはあまり多くないことも付け加えられています。

とりあえず今日はここまで。

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Posted in 人イヌにあう, 犬のこと

<犬のこと>新年早々新聞コラムに質問殺到「まさか散歩する犬にオムツはありですか?」

早々にお年賀状をいただきありがとうございます。

年賀状は時代に合わないのか差し上げるのも相手のご負担になるのかと考えたあげく、昨年はブログでのごあいさつのみにさせていただきました。

しかし結果としていただいたお年賀状に対して申し訳ない気持ちになり、今年は潔く年賀状を送らせていただきました。

皆様の健康と幸せを願うだけの気持ちと元気で精進させていただいているというご挨拶だけですが、送らせていただいてとてもさっぱりとした気持ちになりました。

その年賀状の中にもあったのですが、また昨年から新聞のコラムを読まれた生徒さん方から「これってどうなんですか?」と多少の怒りを込めたご質問が集中しましたのでまずはお答えいたします。

そのコラムを直接読んでいないので伺った内容になるため多少の違いがありましたらご了承願います。

コラムの話題は犬を散歩中の排泄後のマナーとして水をかけた方がいいのか、かけない方がいいのかという話から始まります。

水をかける飼い主さんは犬の排尿の臭い消しのマナーとして実行されていますが、水をかけることが逆に臭いを拡散させることになるのではないかという意見もあるということなのです。

実際のところ、犬が排泄をする素材により結果は変わってくるでしょう。

排泄をした地面が土などの柔らかいものであれば、水を流すことでより早く地面に吸収されるようになり表面的な臭いは薄れる可能性があります。

地面がアスファルトの場合には横に側溝があってそちらに排水できる場合にも臭いは薄まります。

ところが地面がアスファルトなのに水の行き場がないときには、流した水が地面に広がることになります。

薄めた結果として拡散されるというほどではありませんが、水の流れる方向によっては嫌悪感を受けられる場合もあるでしょう。

もし3点目のような場所であれば、そのような場所は犬が排泄する場所としては避けるということをお勧めします。

ただこれでは問題は解決しません。

では公園で犬に排泄をさせることがいいのかという議論です。

公園は犬が排泄をする場として作られたわけではありません。あくまで人が自然を感じる休息の場として都心には公園があるのです。

人が休憩している横で犬に排尿や排便をされて気持ちがいい人はいません。

だけど仕方ないことだと受け入れる人が多いのです。

犬が公園で排泄しないならどこで排泄したらいいのかという議論になります。

そこで最近は飼い主の敷地内や室内で排泄をさせてから散歩ではさせないようにしようというマナー啓発が進んでいます。

福岡市もこの方向性で指導をしていますが、これは人側の立場にたった考えとしては当然の発想ともいえます。

その発想の延長戦上に、散歩をさせるときに犬にマナーベルトやオムツをはめる習慣をつけさせてマナーを遂行させることができるという意見が専門家の意見としてコラムに掲載されました。

この散歩中のオムツ問題にグッドボーイハートの飼い主さんたちは大変は違和感を覚えて多少の怒りを交えながら私に訴えてくださったのです。

犬が散歩してオムツ?。その怒りは犬の立場にたって考えることのできる方の怒りなのです。

だからグッドボーイハートの生徒さんたちがこのような怒りを持ってくださることをとてもうれしく思いました。

同時に公衆衛生を指導する立場にある犬の専門家としてはオムツ提案にならざるを得なかった都心の犬を飼うことの難しさも理解できます。

犬の行動と習性の倫理からするとこれは明らかに動物福祉に反したことで、犬の行動をいびつにし結果としてストレスを与えることになります。

犬を飼うものとして犬を愛するものとして決して推奨される行為ではありません。

だったら私たちは何を求めていったらいいのでしょうか。

犬を適切な環境で一緒に暮らしていきたいなら、犬を人が共有で楽しめるもっと広い公園を福岡市の街中につくる必要があります。

福岡には空いている土地などなく地価も高騰していて、新しい公園をつくる予算などないことはわかっています。

地域の結束力が落ちた現在、地域で寄り集まって新しい公園を作ることもできないことも理解できます。

犬の行動できる範囲は福岡では行き詰っている感じが満載です。

都市空間は未来に向けて3次元的にもっと変化してくる可能性もあるのでしょうか。

時間をかけての空間作りは個人の力ではどうにもなりません。

でもひとりひとりの犬と暮らす飼い主が本当の理解という知識を持って結束することは絶対に必要だということは言い切れます。

散歩中に犬にオムツをさせることですが、私は絶対に反対します。

犬の立場に立つということが飼い主としてのマナーであると信じています。

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<日々のこと>犬との山暮らしはそんなに非現実的でもないと思う

福岡の博多のオフィスから福岡近郊へと訪問トレーニングに出かける日々。

そして博多から佐賀県唐津市七山のグッドボーイハート七山校へと行き来する日々。

この一年も年齢的にはかなりハードワークな移動を続けながらもうすぐ終わろうとしています。

都会でストレス行動に悩む犬の飼い主とその犬の姿を見ながら、

お預かりのときには田舎でのびのびと遊びと学びを満喫する犬の変化する姿を見ています。

トレッキングに来る生徒さんたちは、山に来ると気持ちがいい、犬がとても楽しそうを連発します。

そんな中、ひとりでも多くの方が犬との山暮らしとまではいかなくても犬との田舎暮らしを実現させてくれることを期待はしないまでも希望を持ってやって来ました。

先日、木をチェーンソーで切る作業を終えたあとダンナくんがこんなことを言いました。

「こんな危ない作業しながら、なんで俺、今こんな場所でこんなことをしているんだろうと考えることがある。」というのです。

そのあとには、私と出会っていなければこんなことをすることもなかったと続くわけです。

私も同じようなことをいつも思っていました。

鎌を片手に急斜面で草刈りをしているときに、私はオポに会わなければこんな場所でこんなことをすることなどなかっただろうということ。

山に犬と暮らすことなど考えつきもしなかったことだからです。

考えて決めたのではなく、パートナーが望むからそれに応じて生きてきたのです。

その中で「なぜわたしは…」という言葉が時折自分の頭をよぎることがありました。

自分が何をどこでするのかという大切な決定権をだれかにゆだねてしまったように感じるからかもしれません。

真実は犬のオポが歩いていこうとする道を歩いたのは自分の意志でしかありません。

本当に不便な山暮らしの中では、快適で何不自由なく安心安全で楽な都会暮らしを捨てる理由が特に思い当たりません。

ただ、どちらが芯から心地よいかというとやっぱり自然の中の空気と太陽と風なのです。

田舎がもっと整備されて都会とのアクセスがもっとスムーズにできるようになり、小さなセカンドハウスが田舎に持つことが特別ことではない趣味のひとつだったり、生活の一部になる日々がそんなに遠くないいつかに実現されるような気がします。

これはやっぱり期待しすぎでしょうか。

この方向に知識と資材を投入した方が、犬を小さく愛玩化するよりもずっと犬のためになると思います。

生徒さんから「先生の七山のお家に合うと思うから~」と素敵なものをいただきました。

LEDでオレンジ色の暖かい色から実用的な白色にまで調整できるランプです。

しかも充電式のバッテリー内蔵型で最先端の技術が日常に溶け込みます。

こんな素敵な道具も不便な田舎暮らしを助けてくれますから大丈夫ですよ。

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Posted in 日々のこと, 犬のこと

<犬のこと>何かして欲しいよりお役に立ちたいのは犬も同じ

年末のお預かりクラスが始まって犬ちゃんたちと七山のグッドボーイハートで和やかに過ごしています。

例年なら降り積もりる雪となるはずの水分も今年は雨となり、暖かく過ごせる安心感と物足りない気持ちもあり欲張りな気分です。

暖かく過ごしやすい気候で遠慮なくやってくるのは雑草と笹の新しい芽たち。

季節を問わず環境さえ整えばいつでも成長しようとするその意欲には感服しますが、冬季の草刈休憩をさせてもらえないのは辛いところです。

いざ草刈りへと出かけるときに慣れてきた犬ちゃんをお供に連れていきます。

普段はふらふらとどこかへ行ってしまおうとする犬ちゃんですが、草刈り作業や薪取りの作業のときには、わたしのそばでやっていることを真剣に見守っています。

そのうちに草刈りをしていたら草をいっしょになってとろうと食いついてくるし、薪とりをしていると薪を口にくわえて歩き出そうとします。

明らかに手伝おうとしてくれているのは分かるのですが、子どものお手伝いと同じで逆に作業効率を落としてしまうこともあります。

それでも、その手伝おうとしてくれる犬の気持ちがうれしくなって「ありがとうね」といいながら一緒に作業を進めていきます。

犬が人の手伝いをしようとする姿は本当に愛おしくなります。

犬と暮らす人なら犬の幸せについてたくさんのことを考えるでしょう。

大好きな犬のためにあれもしてあげたい、これもしてあげたいと思うこと。

大切な家族のために思うことと同じことでその気持ちはとても大切です。

ですが当人にとってみれば何かしてもらうことも大切なときにはなるでしょうが、本当に幸せになれるのは自分が誰かの役に立っていると感じるときではないでしょうか。

犬は人と本当の家族になるときに、その人のために何かをしようと思うはずです。

犬が人に甘えてばかりいるのは、人が犬のそばで働く姿を見ることができないからです。

犬は屋外で人が働くときには本当の力を発揮してくれます。

人のためにお役に立ちたいというのは犬が群れの一員としての自覚を持ち始めているということで、群れと自分がひとつになるという犬にとってはとても単純な構造であって相手を思ってのことではないと思います。

誰のためでもないただ自分のため、だからこそ本当に犬は本物なのです。

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Posted in 日々のこと, クラスのこと, 犬のこと

<犬のこと>犬のオスが犬のメスにやさしいのには理由がある

犬と犬を対面させるときに、性別の異なるもの同士を合わせることがあります。

犬の性質や経験にもよりますが、性別の異なるもの同士の方が喧嘩の可能性が下がるからです。

対峙したときの緊張感もオスとオスよりもオスとメスの方が低いのです。

同じ理由でメスとメスよりもメスとオスを対面させる方がリラックス感が生まれやすいのです。

相手が自分と同性か異性かによって行動が異なるのは、個性を超えた生物学的な行動のパターンです。

犬と同じ仕組みでオスとメス、つまり男女に分けられる私たちヒトに当てはめて考えることができます。

自分の行動は最も理解しがたい部類なので、知人や友人の行動を観察してみてください。

たとえばある女友達は、相手が女性の場合と男性の場合とで明らかに態度が違うと感じたことはないでしょうか。

ある男友達についても、相手が男性と女性では行動が違うと思うこともあるでしょう。

これは生物学的に作られた行動のパターンで、同じことが犬に当てはまります。

メスとメスを対面させると緊張した空気、遠回しな資源を守りあう行為が生まれることがあります。

オスとオスを対面させると、一触即発、もしくは一瞬でケリをつけてしまうこともあります。

オスとオスなら勝ち負けが第一。でもメスもメスとならどちらがたくさん持っているかが勝負なのです。

先日お預かりクラスのときに、小さなオスの犬ちゃんと同年代のワンサイズ大きなメスの犬ちゃんを初対面させました。

どんな犬ちゃんにも積極的にアプローチするメスの犬ちゃん、ちょっと面倒くさそうにかわそうとするオスの犬ちゃん。

でもはっきりと嫌だということもなく、ガウもいわない、逃げもしない、吠えもしない、隠れもしない。

適当にチラ見しながら少し知らんぷりを繰り返していました。

オスの犬ちゃんのそばにつきっきりでぴょんぴょんと飛んでいるメスの犬ちゃん。

適当に相手されていることが伝わっているようで、案外満足そうでした。

犬にもある人間のような一面。

でもこれは擬人化された風景ではなく、動物として、生物としてあるべき反応なのです。

犬は人間ではない、でも同じようなところもある。

全く違うところもあるし、そうでないところもある、だからこそ犬のことがわかりにくくなるのでしょう。

違いを楽しみ、似ているところもたのしむ、お互いを動物として認め合うというのはなかなか難しいからこそ面白いものです。

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