グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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日本オオカミが絶滅した今起きている議論:日本にオオカミが復活してほしい?復活して欲しくない?

 昨日のブログでデンマークに2世紀ぶりに野生のオオカミが出現したニュースをもとに、日本国内のオオカミの絶滅状態についてお話ししました。ブログはこちらで→デンマークで2世紀ぶりにオオカミ発見のニュース:絶滅したオオカミは戻ってくるのか?

●日本オオカミは絶滅していない?
 国内のオオカミの絶滅については、絶滅を否定する声があるということもお伝えしておきます。絶滅が指摘されたあとも、国内で日本オオカミを見たという目撃情報はたびたびはいっているようです。そのうち、明らかに誤報であったと否定されたものもありますが、目撃されたものの中にはオオカミとしてとても信憑性が高いと専門家に評価されている例もあります。有名なのは1996年に奥秩父の山中で写真撮影をされたイヌ科の野生動物について生態学者の今泉吉典氏が所見を寄せられたものについてはとても読み応えがあります。関心のある方はこちらのサイトからご覧ください→NPO法人日本オオカミを探す会HPの記事「1996年10月秩父山中で撮影された犬科動物」

 ここで今泉氏の所見の中にもあるとおり、写真の動物は剥製として残されたオオカミに大変酷似しているのですが、首輪周りに首輪の後のようなものがみられます。また、あまりにも人を恐れない行動がオオカミという動物の性質とあうのだろうかという疑問も抱いてしまいます。
 今もこうして日本オオカミが本当に絶滅したのか、それとも生息しているのかを多大な時間をかけて調査されている方々がいることについてはとても心強く思います。日本オオカミは本当にいなくなったんだろうか、いや絶対に山の奥地に隠れ住んで生きのびているに違いないという思いを自分も持ちたくなることがあります。

●日本にオオカミを復活させる活動があること

 日本の山から日本オオカミを乱獲によって絶滅に追い込んだのは人間です。そして今度はオオカミを日本の山に復活させようという計画案が一部団体によって提案されています。理由としてまずあげられるのは、被害の問題です。日本オオカミが生息してこそ山の生態数の守られていた部分がなくなり、山間部でイノシシやシカなどの草食動物が増えて農作物や森林を食いつくし環境破壊や農業被害が拡大するという問題が長期化しています。単純に日本の山から日本オオカミという頂点の動物を駆除してしまったわけですから、その後生態数が崩れることを当時予測できなかったことの方が不思議です。生態の全体を見るという習慣がいかになかったということでしょうか。イノシシやシカを食料としてとる猟師の数も減少しています。猟をしても肉の販売は家畜のようにはいきません。管理されていない環境で生育した動物ですから保健所の許可を得るのも大変なことです。

 こうした動きの中で、日本にオオカミを復活させようという考え方は少しずつ広まってきています。昨年は福岡県でもオオカミ復活についてのフォーラムが開催されました。ちょうど大田こぞうさんとコラボしたチャリティ犬語セミナーの前日であったことから、セミナーの質疑応答の時間にその話題が出ました。このときは、大田こぞうさんもわたしも「賛成とはいえないいろいろな問題がある」という短いコメントをしました。
 実際のところ、わたしはこの日本オオカミの導入計画についてはリスクが大きすぎると思っています。なぜなら導入計画の対象となるオオカミは日本オオカミではありません。タイリクオオカミの中の別の外来種を日本にいれるということです。外来種が国内に入ってくることで生態系が混乱することは、動物種でも植物種でも現に起きていることです。日本の山林国土は他国とは明らかに違っているということを考えておく必要があります。
 それでは、科学の技術をもって日本オオカミの剥製からDNAを採取して日本オオカミを復元できるのでしょうか?それがコピーのようなものでは意味がなく、遺伝により変化し続けるものでなければと思うのです。ですが人の手で遺伝子を復元することについてはとても抵抗があります。人の力で絶滅したかもしれない日本オオカミですが、だからといってまた人の力で復元させてもいいのかというと、これはもう倫理違反ではないかと感じるからです。二度と復活させることはできないからこそ、美しく大切にしなければならないのが命ではないかと思うからです。

 この日本へのオオカミ復活議論については、エルザ自然保護の会の藤原英司先生がホームページに原稿を掲載されていますのでぜひご覧になってください。

エルザ自然保護の会のホームページより「日本でのオオカミ復活を考える(藤原英司先生著)」

●おまけ、日本のネコのこと
 動物種は違いますが日本国内でみなさんが一緒に暮らしているネコは家畜化されて国内に入ってきた外来種の動物です。日本古来のネコやイリオモテヤマネコ、ツシマヤマネコの2種でいずれも絶滅危惧動物の野生動物です。外来種ネコの非常に強い繁殖力によって、日本ネコは本州では絶滅してしまったということです。そしてその外来種のネコたちはまた野猫として日本の山に生息している姿をみかけることがあります。里からずい分はなれた山の中で数回野猫の姿を見かけました。このことによってまた影響を受けている野生動物たちもいることでしょう。事実をちゃんとみること、今できることはこれではないでしょうか。


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デンマークで2世紀ぶりにオオカミ発見のニュース:絶滅したオオカミは戻ってくるのか?

 昨日ブログで紹介したとおりテントで寝ているときに不思議な犬たちの姿を幻想的に見た翌日のニュースに驚きました。(※ブログはこちらでご覧ください→「犬とテントで過ごしたときに見た夢」


●本当に絶滅したオオカミは復活したのか?

 そのニュースとは「19世紀初頭に絶滅したオオカミ、2世紀ぶりに発見 デンマーク」という見出しでした。絶滅した動物の発見には信憑性にかけるものも多いので、今回のニュースも本当かと疑いをかけましたが、このAFP通信(フランスの国営放送)によるニュースは、どうやらかなり有力な情報があるようです。専門家が目撃したオオカミの何かを入手したのかDNA判定によってオオカミ種であることを確認したとのことでした。デンマークで発見されたオオカミは、雌1頭をふくむ5頭の若い群れで新しいテリトリーを求めて500キロ近くを移動してきたのではないかと推測されているとのことでした。
 デンマークでは過度の狩猟により19世紀初頭にオオカミが絶滅したとのことです。過度の狩猟とはやさしい言い方ですが、はっきりいえば過剰の捕獲によって絶滅に追い込んだともいえるでしょう。オオカミは人の食料にはならないため、その狩猟の目的が人の権威をアピールしたいがためだったのか、家畜を守るためだったのか、もしくはスポーツであったのかはわかりません。そのデンマークにオオカミが移動してきたのです。巨大なユーラシア大陸の端っこにあるデンマークですから、陸続きであれば西洋のオオカミにとって500キロの移動は可能な距離です。デンマークの位置が不明確な方はこちらでどうぞ→デンマークはここにあります
 この地域の山の地形などは知りませんが、巨大な何かで切断されていない限りはオオカミは移動し続けます。群れの年齢が若くまた5頭と比較的少なかったことも、長距離の移動を実現させた理由なのかもしれません。もちろん、移動の途中で数頭を失った可能性はあります。しかし、オオカミは世界の野生動物の中でも絶滅危惧動物と位置づけられているため、発見したからといって簡単に殺すこともできないため、一部の密猟を除いては人の捕獲による頭数の減少はかなり抑えられています。
 この事実によってデンマーク国内では早速賛否両論が繰り広げられているということです。オオカミを恐れる農家や動物の頂点に立ちたい人種にとって、山の獣の頂点にたつオオカミは恐るべき存在です。野生動物とどのように折り合いをつけながら人の活動を行っていくのかを考える良い機会を与えら得たということでしょうか。デンマーク国民の今後の動きを見守り続けたいと思います。

●なぜオオカミは日本にいなくなったのか?

 日本では野生のオオカミはすでに絶滅した動物で、すでに国内には存在していないということを生態調査研究のすえ環境省が発表しています。以下は環境省発表の情報ですが、日本には本州に生息したニホンオオカミと北海道に生息したエゾオオカミがいました。ニホンオオカミは1905年に奈良県で最後の捕獲が行われた以後は生存確認されておらず絶滅したといわれています。エゾオオカミはニホンオオカミよりも早い1894年よりも前に絶滅したといわれています。環境省が絶滅したと発表している理由は、最後の目撃情報から50年にわたり生息が確認できなかった動物は絶滅動物として分類する仕組みがあるからです。

 ニホンオオカミをエゾオオカミをかりに日本オオカミというくくりで呼ぶことにします。その日本オオカミがなぜ日本国土から絶滅してしまったのかという理由をあなたはご存知でしょうか。環境が悪化したからなのか?山林が伐採されたからなのか?食べるものがなくなったからなのか?さて、どう思いますか?
 実は日本オオカミを絶滅に追いやった本当の理由は人の手による「捕獲」です。その捕獲は食べるための捕獲ではありませんでした。日本オオカミの捕獲には懸賞金が出るという政策が各地でとられていたのです。オオカミの頭ひとつにつき数百円くらいだったかと思います。その懸賞金と自分のライフルの腕を自慢したい人たちと、動物を殺したいという気持ちもオオカミの捕獲に火をつけたのではないかと思います。
 日本オオカミの捕獲に懸賞金が与えられたのは明治維新以降に欧米の文化をさまざまな生活の中に取り入れる圧力が強まり、それによって家畜を育てて食べるという食生活と動物との関係性についても変化を要求されたことが原因でした。エゾオオカミが早い時期に絶滅しているのは、未開の北海道でもっとも可能性のある経済活動が家畜を育てることであったこともその理由ではないかと思います。家畜を育てればエゾオオカミはそれを狙いきますので、家畜業は困難です。エゾオオカミを絶滅させることで人の経済活動を達成することができるという完全は人側の都合です。
 同じことが本州でも起こりました。肉食スタイルの西洋の食文化を日本に浸透させるために牧場建設が広まり、それに伴うように牧場を襲うオオカミは絶滅させるために捕獲を続けたのです。最後のオオカミが捕獲れたときに、ニホンオオカミは絶滅してしまうのではないかという危惧を抱いた方がきっと何人かは存在したのだと思います。でも、そんな人の話に耳を貸すこと人はいなかったのかもしれません。
 絶滅動物を守ろうなどのいうスローガンのもとに動物保護活動が行われる一方で、絶滅している動物の多くは人の関与によってそうなっているという事実をあらためて認識をする必要があります。まず、日本オオカミは日本国民の捕獲によって絶滅したという事実を知っていただきたいと思うのです。

●動物園のオオカミはニホンオオカミではない

 ちなみに動物園にはオオカミがいるじゃないか?と疑問をもたれた方もいるでしょう。国内の動物園にいるオオカミはタイリクオオカミという種別ではニホンオオカミといっしょなのですが、日本以外に生息するオオカミたちで輸入動物や動物園で繁殖された動物です。その種類は、シンリンオオカミ、シベリアオオカミ、チョウセンオオカミ、チュウゴクオオカミ、ヨーロッパオオカミです。
 これらのオオカミを動物園でみるからか、日本オオカミもこんな感じだと思っている人がいますが、実際のニホンオオカミはかなり違います。きちんとした写真がなく剥製ですがこちらが二本オオカミです。

ニホンオオカミ
 動物園や西洋の映画に出てくるオオカミとはサイズも要望もかなり違いますね。どちらかというとキツネとタヌキの間という感じでしょうか。キツネもタヌキも国内に成育するイヌ科動物ですから、ニホンオオカミにとてもちかい動物なのです。国内のオオカミグッズとして販売されているオオカミの肖像は西洋やカナダのオオカミのものです。ニホンオオカミの姿が日本人に忘れられてしまうのはとても悲しいことです。

 日本古来の文化では山のオオカミは「大神」として崇められていました。日本各地には大神神社がまだ残っています。そういえば数日前に「大神」という表札がかけらえたご自宅の前を通りました。これはこれで、本当にビックリしました。




 ニュースはこちらでご覧になれます。
19世紀初頭に絶滅したオオカミ、2世紀ぶりに発見 デンマーク


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犬とテントで過ごしたときに見た夢:今度はたくさんの犬が出現する!!

 ゴールデンウィークはどのように過ごされていたでしょうか。
たくさんのお休みでマンションを脱出して自然の中で犬とゆっくり過ごした方もいたでしょう。
ご自宅のお庭で日向ぼっこする犬とまったりと過ごされた方もいたことでしょう。
 グッドボーイハートの七山校でも晴れのひとときを犬たちがそれぞれにゆっくりと過ごしていました。自分もテントクラスに参加して、犬たちの今年はじめてのテント泊をしました。

●テントでふたたび見た不思議な夢のこと

 犬と寝るテントクラス(ドギー・テントクラス)の夜に、また不思議な夢を見ました。わりと夢を覚えているほうらしく、今までにも何回も現実なのか夢なのかわからないほどの感覚のある夢を見たことがあります。テント泊のときにもなんどか同じ経験をしたことがあります。
昨年のテントのときに見た夢については以前ブログで紹介しました。
 こちらです→犬とテントで過ごしたときに見た夢:動物の楽しい化かしなのか?

 そして、また不思議な夢を見ました。その夢はこんな内容でした。

 テントの中でいっしょにテントにはいった飼い主さん1名といっしょに座った状態で体を起こしています。わたしたちが身を潜めてみているのは、山の下からゆっくりと人の道を上がってくるいくつかのライトの光でした。身を潜めているのでお互いに言葉もなく、テントに入っていた犬たちも伏せていますが静かにしています。ライトはどんどんテントに接近してくるのがテントの中からすけるように見えます。レースのカーテン越しに見ているような感じです。

 接近してくるとより詳細に様子がわかりました。ライトを持っていた人が7,8名くらいいて大人から子供まで横一列にならんだようにたっています。服装はぼんやりとしたブルーっぽいカモフラージュのような色で少し古い雰囲気のもんぺと羽織のようなものに見えました。
 声が聞こえてきました。「こんにちわ、何かご迷惑をおかけしたでしょうか。」というようなあいさつのようなものでした。声の主はとなりのテントに犬と入っていた飼い主さんのものでした。わたしたちが身を潜めている間に、声をかけられたのかと思って聴いていました。ほどなく声は消え去り、再び静けさだけが戻ってきます。

 そして、テントの布越しに透けて見える姿が少しだけはっきりしてきたような感じがすると、その人々の前にやはり大小の年齢の白い犬たちがしっかりとこちらを向いてたっていたのです。脚が長くスラリとしていて、大きなものは背丈が人の腰下くらいでした。毛は短毛ではなかったですが、長毛でもなく、少しだけ毛足がある白い色の毛でした。洋風のオオカミほどの幅はなく少しやせていてそれでもしっかりとこちらを見ていたことだけを覚えています。その犬たちが見えると後ろの人々の形が少しぼやけてきました。夢はここで終わりました。

●この夢を引き出しかもしれない前の日の談話

 テントでは熟睡はしていないので、途中で人の気配や犬の動き、野生動物の気配などで目が覚めることが普通です。このときも、途中で目が覚めて「あれ、さっき見たライトがさして人と犬がいたあの光景は夢だったんだ。」とぼんやりと考えてしまうのです。頭は半分寝ていますのでこのときは、その夢の意味を考えることはできません。ただ、覚えておきたくてどんな夢だったのかをもう一度頭にイメージさせてから再び眠りました。夢の中に出てきたテントのパートナーも実際の飼い主さんといっしょでした。隣で声を発した生徒さんも全く夢と同じ状況でテント泊をしていました。みたもの以外の状況は、その日のテント泊のままなのです。

 実は、このテント泊の夜の会食のときに生徒さんたちと犬の繁殖による行動の変化についていろいろと話をしていました。ブログに書いたカフェのマナーのこと(ブログ記事:オープンカフェでみるとんでもビックリな犬の光景:欧米と比較して考える都心の犬)がテーマとなり、ずい分深くお話したのです。日本は純血種を飼うことが当たり前のような傾向がありますが、欧米と日本の犬の文化の違いや犬のサイズの違いなどは比較すればするほど、以下に日本が独特であるのかがわかると思います。日本の飼い主たちがどのような犬を求めているのか、そしてその求める犬が繁殖されることで、犬はずい分犬らしくなくなったと感じることがたくさんあります。
 日本には、日本の国土が育てたイヌもしくは犬はいなくなってしまうのも時間の問題かもしれないという危機感があるという話をしていました。この話が、テント泊での夢を引き出してきたのかもしれないと感じました。

 「山怪」という本にも記されているように、山では不思議なことがよく起きるのです。その夢は室内では見ることはできなかったでしょう。そして、その夢の意味を自分がどう受け取るのかも自分次第です。ですが、こうした不思議を体験できることは、自分にとっては人生を少しだけ豊かにしてくれるものとして有り難く思います。

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犬にも漢方:山の薬草を動物が得る不思議

生徒さんのお宅で、子犬が異様な形の木のようなものをかじっているを見ました。

これって何ですか?と尋ねると、それは「さるのこしかけ」だとのことでした。
さるのこしかけが漢方薬として使われているということだけが頭に浮かびました。

そのさるのこしかけは飼い主さんが山で見つけて自分用に取って来たらしいのですが、子犬がそれをみつけてかじり始めたので、遊びものとして与えているということでした。

子犬がかじっているさるのこしかけは半分くらいなくなっていて、見ているとかじりながら食べていたので、半分は食べてしまったということのようです。

とても不思議な光景でした。

というのは、犬は山ではきのこ類にはまず手をつけることはありません。
犬らしく説明するなら、食べたりかじったり臭いをとることすらありません。

きのこ類は毒性が大変高く、間違って口に入れると死に至るものもあります。
なんでも口にいれてしまう犬が食べてしまったら大変危険なもので、その上山のどこにも大量のきのこ類が簡単に口にできる場所にあるのですから、管理しようと思っても無理があります。

最初は心配したのですが、犬はまったくきのこには関心を示さないということがわかりました。

さるのこしかけもきのこ類の一種です。
そのさるのこしかけを犬がかじっていたのが不思議でした。

老犬ならまだしも、子犬にさるのこしかけが必要なのかどうかはわかりませんが、これが毒物ではないことをわかって食べているのだろうなという印象を受けました。実際に本当にそうかどうかはわかりませんが、その子犬に関しては大変慎重な性質をその行動でみる機会があったからです。

子犬は散歩途中の野原の中で動くものがあっても、じーっと身をひそめて様子を遠巻きに伺った上で、その動くものの気配がなくなると遠巻きに臭いをとって立ち去るという反応を示していました。
とはいえ、子犬です。たいした理由もなくかじられるものをかじって遊んでいたという見方できるので、体が必要としたから漢方を用いたというわけでもなさそうです。

犬は自分の体調にあわせて草を食べたり、土をたべたり、朽ちた木をかじったりします。
自然の中にあって自分の体が求めるもとを自然と取り入れるのは、野生動物であった記憶がまだ残っているといううれしいお知らせです。

漢方は動物たちが体の状態にあわせて取り入れているものを観察して得た知識が基盤になっています。犬がそうした行動をとるのは当たり前のことなのでしょうが、長らく自然から隔離されていた動物としての犬が自然の力を利用する姿を見ると、本当にうれしくなります。

山でさるのこしかけを見つけた、という飼い主さんの言葉が耳に残りました。
早速、七山でもさるのこしかけ探しをしてみました。なんとたくさんあります。
それがさるのこしかけであることに、今まで全く気がつきませんでした。

わたしたち人間はというより、文明人は知識としてしか必要なものを得ることができなくなってしまい、動物としてはずい分と能力を落としたものだなと改めて思います。
何かを得れば何かを失うのか、それがバランスなのかもしれません。

ここにさるのこしかけがあるという話題から、さるのこしかけは買うと高いという話題へと移ってしまいます。
なんでも対価になってしまうのも、私たち文明人の脳の偏りなのかもしれません。

そんな気持ちにならない犬の世界がいいなと思ってしまうのはわたしだけでしょうか。


dav

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馬語の本に見る犬語

先日知人が尋ねてきたときに「この本いただいたんです。見てみてください。」と置いていかれた本が「馬語の本」でした。

著者はライターの方で馬の専門家ではありません。普通の人が馬と接して感じたことや、自分なりに動物を観察してその行動から馬の気持ちをしようというもので、犬の気持ちを犬語といっているのと全く同じとらえ方だったので、楽しく拝読しました。

犬は動物を捕らえて食べる捕食動物といわれる部類であるのに対し、馬の方は食べられる方の草食動物です。あきらかにそれぞれの立場は違うものの、馬も犬と同じように群れをなして移動したり生活をする習性があるため、その社会的な行動には多くの共通点があるようです。

たとえば、馬が後ろ脚で蹴るという行動をしますね。犬などの動物に襲われそうになったときも馬の後ろ脚で蹴られるとひとたまりもありません。馬の防御的攻撃行動ともいえるものですが、直接的に攻撃しなくても馬は苛立ちを感じたり強さを示すときに後ろ脚で地面を蹴る行動をするらしいです。

実は犬も後ろ脚で地面を蹴る行動をします。よく見られるのは排泄の直後ですが、排泄行動との関連性がなくても、地面を脚で蹴る行動をすることがあります。直接的には自分の臭いを地面につけるマーキング行動のひとつになっていますが、馬と同じようにちょっと虚勢を張る行動でもあることから、似てるなと感じたのです。

他にも耳の動かし方などは似ています。特に緊張をする耳を後ろに倒したりする社会的な行動は犬にも見られます。

一番納得がしたのは、人が馬に近づく方法です。
馬が人を認識したら馬が近づいて人のことを危険でないと感じるまでは、視線や姿勢を馬のほうに向かずほとんどうごかずに直視せずにたっておくというものでした。文章のままではありませんが、行動としてはこのような接し方です。そしてゆっくりと相手が自分を認知し、危険でないと受け入れてから次のコミュニケーションが始まるというものです。

この接し方は馬が大変怖がりで、距離を縮めたり接近したりしないようにという注意を払うものですが、あれほど大きな馬に対してでもこうやってゆっくりと接していく必要があるのに、小さな子犬や犬に対してであれば、なおさらのこと距離と時間をかけて相手が自分を確かめるまで待ち、認知が進まないのであればくり返しそのチャンスを与えるという時間をかけなければなりません。特に子犬や小型犬に急に近づいて手を出して触ったり見つめたり声をかけたりすることをくり返していると、犬はすぐに人に対して吠えたり、来客が来ると興奮してとびついたり走り回ったりするようになってしまいます。

そして、最後に犬のことにふれてありましたがこの部分だけは私は違う見方です。
本の中にはこうありました。

引用ココから
ウマにとっての人間は「積極的に自分から仲良くなりたい存在」ではないからです。ウマは仲間と草を食べて暮らしてゆければ幸せです。そういう環境にいられるのなら、人間は特に必要ありません。

もちろん、おいしいものをくれるとか、かゆいところを掻いてくれるからという理由で人間に近づいてくることはあります。でも、それは、犬が人間のことを大好きで、ずっとそばにいたいと思っているのとはちょっと違います。ウマはもっと淡々としていう、という感じでしょうか。

ココまで
・馬語手帖 河田桟 発行所カディブックスより

本当に犬は人間のことが大好きでずっとそばにいたいと思っているでしょうか。
みなさんはどう思うでしょうか。

私は少し違う考えを持っています。
犬と人は特別な歴史を持って近づいていきました。犬は人を求め、結果人も犬を求めそして共に同じテリトリーを守りながら協力関係を結んできたのでしょう。ですが、人が犬を飼うという新しい関係が生まれました。そして現在に至るのです。

犬は繁殖によりとても無力で学習能力も低くなってきました。執着も高く欲求の偏りも大きくなっています。同時に病気も大変増えていますね。犬は馬と同じようにもっと淡々としていたのでしょうが、時代と共にその姿は消えていきそうになっています。

ある動物を研究する方の著作には、馬についてこんな風に触れていました。馬は世界でもっとも過酷な運命をたどった動物である。なぜなら野生の馬というのはもう1頭も存在しないからだということでした。牛であれ豚であれ、その元の動物は存在しているし、世界の中には人に飼われていない野犬はまだまだたくさんいます。動物の人の関与も動物の淘汰の歴史のひとつでしょうから仕方のないことかもしれません。しかし、人というのは短い時間で環境に影響を与える特別な動物だと感じます。自分の近くにいる動物が変わってきたら何かのお知らせです。今一番変化しているのは実は野生動物ではなく、犬と猫ではないかと思っています。みなさんはどう感じているでしょうか。

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薪割りは体幹トレーニングとして

午前中の尾歩山でのトレッキングクラスの前に、久しぶりにチャレンジしました。

薪割りです。

10年くらい、薪を割る機会がなかったため、斧がさびてしまいました。
最近庭木の手入れをしたときに少し太い木が出てしまいました。
広葉樹だったので薪ストーブ用の薪にしたい。
でも斧がない…。

10年前も決して薪割りはあまり得意ではありませんでした。
なにしろ斧は重いし、少し怖いです。
でも、最近バランス感覚が鈍っているような気がして、バランスを取り戻すためにできることを捜していました。それで「よし、薪を割ろう」と思ったわけです。

早速、斧を買ってきて今朝、久しぶりの薪割りとなりました。

かっこよくできたといいたいところですが、最初の一刀で木の間に斧の先がはまってしまい、どうやっても抜けなくなり、それを抜くのに大変な時間がかかってしまいました。
もともと苦手なことを、ずっとやってなかった上に、この10年で年もとっています。

気をとりなおし、もう一度バランスをとるために調整をしてみました。
ヒーリングでいうと、呼吸を沈めてグラウンディング、自分の中心をみつけて丹田に気を沈めて、みたいな感じです。
そして斧を振り上げるのではなく、自分の体のひとつとして手を上げて、まっすぐに落とすだけです。

だんだん気持ちよく割れるようになってきました。
体も温まってくれます。

薪は人を三度暖めてくれるという言葉はどこでいわれたのでしょうか。
薪を割るとき、
薪を運ぶとき、
薪をくべるとき


薪割りは気を許すと大きな怪我につながります。
それだけに気持ちも引き締まり、落ち着きも取り戻せます。
自分のバランスの悪さを知り、そこに向き合う時間にもなります。

薪割り機というのもあるけど、それはそれとして便利に使い、
薪割りの精神というのは忘れないでいたいと思うのです。

犬は人が何かに対して真剣であるときには、よくわかっています。
ぐうたらとしていることもよく知っています。
犬はこわいくらい、何でも知っていますね。

薪割りはみなさんに体験していただくには少し危ないのでお願いできませんが、
こんな楽しく自分を鍛えられることを、独り占めするのももったいない気がします。

薪割りをした薪を使う薪ストーブの工事が始まりました。
今まで使っていた暖炉とはサヨナラになります。
今までありがとう。これからは新しい姿となってまたいっしょに楽しくやりましょう。



dav






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熊本被災ペット支援ネットワーク
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犬と共に癒しを体験するとき

少し遅めの初詣をかねて今年「尾歩山(おぽさん)」歩きが始めての犬と飼い主さんといっしょに山歩きをしました。年のはじめということもあって、山歩きの一歩一歩も感慨深いものになります。
今年は何才になるねといった話題も出たりして、ずい分を年齢を重ねてきたけど、こうして犬と一緒に山を歩く時間が持てているという率直にうれしいという気持ちが伝わってきます。

犬の方は一年のはじめということもなくいつもと変わらない日々。ただそれぞれに毎日少しずつ経験を重ねたり年月を重ねるうちに、前よりもずい分と落ち着いた歩きになったり、月日の積み重ねが脚の運び方にあわられたりするけど、そのことを悔やんだり悲しんだりすることはありません。
飼い主さんと一緒に冷たい風を受けながら、一歩一歩と歩く共同作業は犬の気持ちを飼い主さんに近づけてくれる時間になっています。
自然の良い気の流れる過ごしなれた場所での飼い主さんと犬のひとときは、飼い主さんにも犬にも「気持ちの良いとき」を与えてくれます。それこそが癒しの時間です。

犬を飼う目的が「犬に癒されたい」と口にされる方もいますが、癒しているのは犬ではなく犬がつながっているもっと大きな世界です。犬とともにいて「癒される」と感じるなら、その犬がつないでくれる自然の世界に、飼い主さんを案内したいと窓口になっていてくれるからでしょう。いつまでも間に立つ大変な役割を犬に負わせないで、飼い主さんと犬がいっしょにその癒しを受け取れるようになれば、犬との関係はそれまでとは違ったものになるでしょう。

犬と体験してほしい山歩きは、流行りのアウトドアイベントではありません。山で走り回ったり興奮したりはしゃいだりすると、自分のやりたいことが優先してしまってせっかくの受け取れるものを受け取る機会も失ってしまいます。「山に入るときには謙虚に静かに」これがグッドボーイハートのルールです。

山を知らない犬は最初はとても興奮してしまいます。テリトリーの問題、どのように行動していいのかわからない、人が管理できない空間の怖さ、他の動物達の気配におびえること、そして山を知らない人間の不安定さと自然の中でのバランスの弱さを動物として察知してしまうからです。

では何から始めればいいのか。筋トレなどは効果はありません。
わたしは「呼吸」を大切にしています。
自然の中で過ごすには、自然のリズムに共鳴できるようにすることです。
別のものとして自然が排除したいという存在ではなく、自然と共にいることを許される存在として自然に受け入れてもらおうと思うと、呼吸は自然にゆっくりと深いものに変わっていきます。
そうすると、きついと思う山登りなはずなのに辛さが全くなくなります。息もあがらなくなるから不思議です。結構急坂な尾歩山ですが、いつも落ち着いて歩くことをオポに求められれて歩き続けた結果、まったく辛さを感じずに呼吸を自然と整えながら歩けるようになりました。これもオポという犬から学んだ大切なことです。

癒しをちゃんと受け取れる方法は他にもあります。これも自然とできるようになるのですが、山を歩きながら「ありがないな」「気持ちがいいな」「豊かだな」と思えることです。飼い主さんたちも自然とそんなコトバを口にしています。自然の癒しの力は本当に偉大なものだと痛感します。
年をとって山に登れなくなった犬たちにも、まだ山に到達しない犬たちにも、尾歩山からすべての犬と飼い主に豊かさが届けられますようにと祈ります。

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犬の恐怖心、不安を考える

それはひと月ほど前に起きました。

庭に続く山の笹林の手入れをしていたときです。
その日は小雨がふっておりコンディションが悪かったのですが、時間がとれなかったため、今日のうちにやってしまえと思ったのです。
少し前に切り倒したばかりの笹が横倒しに倒れており、その上の踏みながら歩かなければいけません。倒れた笹はまだ若いために踏みつけることもできず、笹の重なりがばねのようになってしまい、とても歩きにくく、濡れてすべりやすくなっていました。
夕方で作業を早く終わらせたいという気持ちのあせりもありました。それで、うっかりと脚を滑らせて後ろ向きに倒れたのです。背中が倒れている場所は平地ではなく下り坂なので90度倒れるよりもっと大きく、180度に近いほど後ろに倒れることになりました。

不思議なことはこの瞬間に起こりました。

あ、倒れると思ってから背中が地面に着地するまでの間が、スローモーションだったのです。
倒れてしまった瞬間に普通の速度に戻っていました。
倒れて怪我をしなくてよかったと思うよりももっと前に「今、見たものがスローモーションに見えたのはなぜか」と思ってしまったのを鮮明に覚えています。

映画の事故などの危険なシーンを直前にしたときに映像がスローモーションになるのはそのように見た人がいるからなのだと、今さらですが自分が体験してはじめて真実であることがわかったのです。

ネットではありますが少しだけ調べてみました。今年千葉大学が「危険なときには視覚能力が高まり事態がスローモーションのように感じる」という研究結果を出していることがわかりました。科学的に説明されればさらに納得がいくのでしょうが、実際にその体験をしたことがある人たちが証言すれば、それも信憑性のうちといえるのでしょう。

生徒さんにこの体験を話したところ「私の友人も遊具から落ちる瞬間にスローモーションになったといっている」という話を聞きました。同じような体験をした人がいて安心すると同時に、こうした不思議な動物の能力はきっと、いや確実に犬に備わっているに違いないと思えたのです。

なぜかというと、危険を感じる能力は動物の方が人よりも圧倒的に高いからです。それは動物が脅かされているという意味ではありません。動物は危険を感じたらそれに対してみずから行動する力を持っているという意味です。人は自律して行動しているようで、意外にそうではありません。自立や独立はしているのだと思いますが、いざというときに必要に体が動く人はそれほど多くないと思うのです。人はあらゆる道具と科学の力を駆使して安全を獲得したと思っているため、危険に対して鈍感になりすぎていると思うのです。

犬も同じかもしれません。危険なものを危険だと犬が認識してしまうと、人は犬を飼うことが難しくなります。犬を人のそばでたやすく飼う方法として、危険なものを見せないごまかす、認知力の低い動物にしてしまうことで危険を感じにくい自律しない犬をつくっているのかもしれないのです。周囲の環境を把握するよりも、ごほうびを選ぶ行動を取るなどです。

あのゆっくりとたおれる瞬間、何かをつかまなければと思ったのですが、つかめるものが周りになく、そのまま倒れてしまいました。唯一できたのは、背中が着地したとき頭を手前に引き上げて衝撃と怪我を和らげる事ぐらいでした。でもそれすらも、スローモーションになっていなければできなかったのかもしれません。

オポのお墓のすぐ近くの出来事でした。


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草履が三度見つかったこと

草履消失事件、自分でつけた事件の名前も忘れてしまいましたが、とにかく草履がなくなる事件の続報です。

つい先日、なくなった草履のうち赤い草履の片方を見つけました。

もともと、赤い草履は片方しかなくなっていなかったのです。

その草履があった場所は倉庫の棚の上なのです。

見つけたときは、本当にビックリしました。

その棚の前には薪台に薪がつまれておいてあり、その高さは1メートルくらいあります。
よほどのジャンプ力がないとそこに上がることはできません。

見つかった草履を確認したら、やはり歯型がついていました。

ここに飛び乗れる動物といえば…。犬にはとても無理です。

猫は俊敏なので飛びあがれる高さではありますが、草履をくわえたままというのは難しいでしょう。

タヌキはそんなにジャンプ力があるのでしょうか。

キツネなら難なく飛びあがるような気がします。

写真を撮ったのですがブログアップには間に合いませんでした。
後日写真は掲載しておきます。

草履の見つかり方も次々と変わっていく。

私が草履を探しているのを知っているのでしょうか。

だとしたらこれはもう「捜そうゲーム」になっています。


赤い草履は片方しか持ち去られていませんでした。

手紙をつけた片方の赤い草履はまだ持ち去られていません。

手紙を受け取る気がないのでしょうか。

動物を相手にしたやり取り。やり取りになっているのかどうかも分かりません。


野生動物が怖くないですか?と尋ねられますが、

今のところ距離を保っているので怖くありません。

野生動物で一番警戒してしまうのはサルです。

集団で行動しているサルが最も脅威に感じます。

七山では「サルを見たらできるだけ避けるようにして、挑発しないようにしてください。」というようなアナウンスがよく流れます。サルは数も少なく希少動物でもあり扱いも難しいのでしょう。

草履をもっていくのはもしかしたらサルかもしれないという仮説もたてたのですが、
草履が消える時間が夜間であったことから、サルが活動する時間帯ではないと思い
この仮設は消えました。

やはり、タヌキもしくはキツネか。

難問はまだまだ解けそうにありません。

追記:見つかった赤い草履の発見現場。発見時の状態です。
赤い草履はどこにあるでしょう。

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草履紛失事件:策をねる

このブログが草履紛失事件の主にのっとられそうになっていますが、引き続きお知らせします。
昨晩なくなったものは以下のとおりです。
・青い草履の片方
・椅子の上に乗せておいた一度回収したピンクの草履の片方
・机の下においてあった食べかけの柿1個
これらが跡形もなく消えていました。

回収したものは1点。
生徒さんが山歩きの最中に落したものを探しに山に上がった際、2番目になくなったブルーの草履のうちの片方を見つけてこられました。発見場所は、ワンコ山の頂上付近の尾根の一部です。1週間前には同じ場所にはなかったので、一旦テラスからどこかへ持ち出したあとにさらに移動したことで落としていったのだと思われます。いくつもの歯型が見られました。しっかりとした歯型である程度のサイズのある動物であることが伺えます。怪しい、間違いなくイヌ科動物の仕業です。

昨晩は椅子の上に置いているものはとることがないと油断してしまい、回収したピンクの草履をふたたび取られてしまったことに愕然としました。予測がはるかに甘かったということです。
二つ目の草履の発見場所が山の上付近であったことから、家周辺の藪や巣穴への持込説が否定されることとなりました。山歩きの最中にくまなく草履を探しながら、犬たちにも「草履を探してください」と声をかけたりしたのですが、あいにく草履探しに熱心な犬もおらず、結局新たな草履は見つかりませんでした。

次の一手をどのような策にしようかと考えましたが、ここはやはり童心にかえってみようと思います。それで手紙を書きました。

手紙は細くおりたたんで、ひとつのこっている赤い草履に結び、持ち帰るのを待つことにします。

dav





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