グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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犬の臭いが気になりますか?犬の体臭について

七山校で犬のお預かりクラスをしているときに気づく事。
お預かり日数が3日目くらいになると、犬の体臭がかなりなくなっていることです。

環境の変化に敏感な犬の場合には、1日で毛質がずい分と変わってしまいます。すごく柔らかくなるのです。臭いも減ってきます。臭いに関しては、当初は「自分の鼻が臭いになれたのかな。」と思っていましたが、何どもお預かりをくり返していくうちに、やはり犬の体臭が変化しているのだという確信にいたりました。毛質の柔らかさといった変化については、飾り毛の犬はわかりにくいのですが、それでもあきらかに毛が柔らかくなっています。

犬の体臭は一番が犬の状態の臭いです。犬は自分の状態を臭いとして表現することで、自分が今どのような状態かを周囲に知らせることができます。ストレスのレベルが上がってくると、体内ではその状態を臭いとして周囲に知らせることになります。ストレスがあまりない環境だと、臭いを出す必要がなくなります。そのため体臭はかなり減ってきます。シャンプーやアロマで臭いつけをする必要はありません。

都市環境で犬の体臭が強く感じられるのは、空気の汚れや排気ガスが犬の毛についてしまうということもありますが、同時にその汚れた環境に犬がストレス値を上昇させていく結果なのです。

動物は体臭が臭いと思われているでしょうか。
動物にとって体が臭いということは大変危険なことです。動物はいつも身を隠す必要があります。気配を隠しても臭いがプンプンと漂っていれば、そこにいることがばれてしまいますね。
野生動物が臭いと思われているのは、人に捕獲されたときに危険信号のストレス臭を一気にはなつためです。動物園が臭いのは、まさにそこにいる動物達がストレスをかかえて飼育されているからです。最近は動物園には行っていませんが、動物園は今でも臭いのでしょうか。

どんな動物も狭い場所でつなぎっぱなしにすればストレスはかかります。また狭い場所で隠れられないような柵の中に入れられてしまえば、それも大変なストレスです。犬も同じです。屋外飼育であれ、室内飼育であれ、犬はストレスを感じると臭いは強くなります。臭いは犬のメッセージです。だからそれをシャンプーやアロマスプレーで消さないで欲しいのです。

子犬の飼い主さんから「まだシャンプーに連れていっていないんですけど…。もう連れていってもいいんですか?」といわれました。
「臭いが気になりますか?」と尋ねると、
「いや、そういうわけではないのですが、連れて行かなくてもいいんですか?」というお答え。

犬をシャンプーしなければいけないという思い込みでしょうか。
少なくとも自然や毛や多少の飾り毛の犬で毛が抜ける普通の犬は、体臭が気にならない限りシャンプーの必要はありません。都市環境でほこりや排気ガスで毛が汚れてしまうため、体を毎日拭いてあげるくらいの配慮をしてあげるといいでしょう。

皮膚は保湿が一番大切です。人だったら強い石けんで洗って、そのあとクリームを塗って保湿ということなので、犬にも同じことをしようと考えてしまうのかもしれません。

動物には動物のもっている体の機能というものがあり、できるだけその機能が発達できるように支援するのは動物を飼育している人、犬と暮らしている人つまり飼い主の役割です。シャンプーしすぎると犬の皮膚の機能性は落ちてしまいます。健康で楽しく愉快な犬は、体臭はほとんどありません。シャンプーをしなくても、犬の背中に顔をくっつけて(もちろん犬に了解をとってください)思いっきり臭いをかいで臭くないと感じるのでしたら、どうぞ安心してください。

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オポの会2016年

オポの一周忌をひかえた「オポの会」を開催しました。

午前中はいつもとおり落ち着いたメンバーでお山散策を行いました。
今日、わんこ山の名前を改名します、といっていたのに、
それをみなさんにお伝えするのを忘れてしまいました。

グッドボーイハートの裏山は今日から新しい名前にします。
山の名前は「尾歩山」 よび名は「おぽさん」です。
きっとオポも了解してくれる名前だと思っています。

この尾歩山で、これからもいろんな犬たちが犬として息吹を吹き返して、
生き生きと生きていく姿をみたいなと思っています。
今日も山は変わらずにどっしりとして、不安定なわたし達の気持ちや足並みなど
全く取り合うこともなく、ただ季節の移り変わりだけを告げてくれました。

山から下りてすぐに石窯に火をいれる準備をしました。
パンの準備は朝からばっちりでしたので、窯にも気合がはいります。
でも、なんだか今日はとてもうまく火を起こすことができて、いつもより早く
窯にパンやピザを入れることもできました。

あとはみなさんとワイワイとお話をしながら、ピザやパンや野菜スープや、ユズドレッシングをかけた新鮮なサラダ、そして手作りの焼きドーナツなどをいただきながら、犬のはなし、子供のはなし、オポのはなしといろいろとおはなしがつきませんでした。

いろんなうれしいことがあったのですが、やはり前スタッフのふたりともに子供ができたことが何よりもうれしいお知らせでした。
ひとりは生後一ヶ月、ひとりは3月に生まれる予定。
どちらも身ごもってすぐにオポが夢でお知らせするという素敵なオマケもついていたらしいです。

人生ではいくつものことを同時に欲しがると全て失ってしまうような気がします。
仕事で生きるのか、結婚して子供をきちんと育てるのか、主婦でがんばるのか。
選択の道はそれぞれですが、自分が本当に大切にしていることを選択できる力は、自分で見につけるものではないかと思うのです。
なので、それぞれが必要な学びを得られているということがうれしいことだなと感じました。

お花で気持ちを送ってくださったかたもいて、普段は静かなグッドボーイハートの部屋が花のかおりとみなさんの笑い声で一気に陽気になりました。

オポが亡くなって一年。犬としては大変な仕事をしてもらったという気持ちがとても強かったのですが、これだけ多くの方の心に足跡を残したオポ。必要があって受けた仕事なのかもしれないと少しだけ飼い主としての気持ちも軽くなりました。

すごしている時間が充実しているときは、写真を撮る余裕もないですね。
今日は写真を1枚も撮りませんでした。それでも素敵な時間でした。

ありがとうございました。

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Posted in 日々のこと, オポのこと

オポの会&裏山改名式

オポが亡くなって1年がたとうとしています。
自分の年齢も進んでくると、毎年一年が早いなと感じられるのですが、この一年は本当にあっという間であったように感じられます。感じられるというよりは、早く一年がたってほしいと思っていたのだということを否定できません。やっと一年たったなと、少しほっとしているところです。

オポのいない一年を振り返る会などやる予定ではなかったのですが、オポのお参りに来たいと声をかけてくださる方がいたため、せっかくならみんなで楽しいところをオポに見てもらおうということになり、今年も「オポの会」をすることになりました。
12月11日12時~ 自由に来て自由にお帰りください。オポとご縁のある方ならどなたでも大歓迎です。
オポの大好きだった石釜パンとピザを焼いて、お待ちしています。※きっと焼けているはずです。失敗したらゴメンナサイ。

そして、同日わんこ山と一時的に名づけたけどそのあと正式に名前をつけなかった裏の山に、ついに名前をつけることにしました。11日に発表します。


今日はみなさんをお迎えする前に、少しでもきれいに整えておこうと思いまして、山の手入れに奮闘しました。まずは、今年たくさん実をつけてくれたユズをとるところから始めたのですが、大変な時間と労力を要しました。でも、できのわるいぼこぼこした形の自家製のユズは、気持ちが温まるような風合いで、その香は十分に自己主張の強いものでした。オポの会のときにお持ち帰りください。

引き続き山の手入れを始めたところ、またなくなっていた草履をひとつ発見しました。一番最初になくなった緑の草履の1足のうちのひとつでした。いつからここにあったのか、また今までとは全く違うルートに落とされていたのです。相手がタヌキかキツネかもわからぬまま、草履捜せゲームは継続しているようです。

伸びきった笹竹もずい分刈り込みを行いました。手作業なのでなかなか進みませんが体は温まりました。山での作業はきついことも多いですが、夢中になれるもののひとつでもあります。体の動きが急に変わるのもわかります。体が重くなったりすることを都市環境でははっきりと感じられません。なぜか、山を歩こうとすると体の動きがいいのか悪いのかがわかるようになるのです。こんな足場の悪い場所をすいすいと動ける野生動物の体はどのようになっているのかと不思議です。自分は人としてまだまだというよりも、全く体を使いこなせていないと感じて落ち込んでしまいます。

平らな床や、すべる床、固いコンクリートや固い地面のドッグランでは、犬も体を使えなくなっているかもしれません。やわらかく緩やかな山の斜面は、全身で微妙にバランスを保たなければ、あっという間に転げてしまいます。

12月11日、裏山を登って、パンを焼いて、みなでオポの話や、最近のことについてお話できることを楽しみにしています。

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犬と野生動物の関係:オポとキツネの不思議な風景

夜中から降り出した雨のため、草履消失事件の容疑動物の再現を見る張り込みは空振りに終わりました。
容疑動物としてキツネが浮上した経過については、昨日のブログをご覧ください。

キツネの話をすると「え?九州にキツネっているんですか?」という反応をよく受けます。
キツネといえば想像するのは北海道の大地。暖かな九州にキツネが生息しているということを知る方はいても、実際にキツネを目にしたことがある方は少ないのではないでしょうか?ここ七山でも唐津地区に近い地域の方にお尋ねしたところ、同じように「七山にキツネっておるとかいな」という答えでした。

わたしがはじめてキツネを見かけたのは、七山の樫原湿原(かしばるしつげん)を夜遅くに七山へ向かって車を運転していたときです。雪が地面に残るような季節でした。車をゆっくりと走らせると追いつかないのがわかっているのか、明らかにゆるやかなスキップという足取りで前進を続けたかと思うと、突然止まって振り返り、そして見事に山中へ消え去っていくという風景でした。その歩行する背骨のまっすぐで揺れのない美しい動作にうっとりとしてしまいました。同じ場所で4回ほど遭遇したのです。

七山校のテリトリー内でキツネを見かけたのは1回だけです。わたしが気づいたのがその1回であったとしても、先方はなんども訪れていることは間違いありません。その1回は、オポがキツネを見送る風景となりました。

場所は戸口を出た先にある動物たちとの境界線の内側、オポのテリトリーの中です。季節は春から秋にかけてです。冬は戸口を閉めてしまうため、戸口のあく「ガチャ」という音に反応して動物たちが去っていきます。戸口をあけている季節は、音もなく庭に出るので動物たちが逃げ去る影を目撃ことができます。そして、このときある事情でいつもは持たない懐中電灯を手に持ってオポについで庭に出ました。

そのとき、車のある位置よりひとつ高めの段から山の境界線にかける坂を、音もなく動く動物の気配に気づきました。オポは少し鼻先をそちらに向けており、私は懐中電灯を当てました。そこにいたのがキツネだったのです。

オポは他の野生動物に対しても大体同じように接していましたが、キツネに対してもやはり同じように接していました。相手がテリトリー内から後退し茂みに入っていくのを見ているというのがオポの行動でした。その野生動物を見ている行動が見届けているというふうに感じられるのです。もちろん視覚だけではなく全身の感覚でそれを得ているということです。後退を確認すると藪の中でガサガサと逃げていく動物を追い立てたり吠えたりすることはありませんでした。さすがにキツネはガサガサと音を立てることもなく、影のように藪の中に消えていきました。

野生動物に対するこのオポの反応は、引越しした当初からではなかったと思いますが、わたしがオポと共に動物達に会うようになった山暮らし1年後には、ほぼこのような行動で安定を見せていました。オポ8歳のときです。
そういえば、オポの隣犬だった里山犬が動物を追いかけているのを見たことがありません。安全確認の必要な情報だったら臭いを追いにいくはずなのですが、山中でたくさん嗅いでいる臭いのうちのひとつだったのでしょう。わたしが得ていない山の情報を、オポという犬がたくさん持っていることに勇気づけられたものです。

樫原湿原にしかいないと思っていたキツネを庭で見かけたのはこの1回限りでした。そのキツネ(まだ容疑中)が七山校を再来。しかも草履を4足も持っていったという事件は犬という動物の結界の強さを思い知らさせる事件です。草履をくわえていく姿を目撃できれば、その行動の意図へのヒントが得られると思うのですが、今日も雨なのでまた待ちぼうけになりそうです。

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集合住宅で犬を飼うことを考える

博多では夜というのにヘリコプターのプロペラの音が物々しく響いています。

駅前の陥没、大変な人災ですが怪我をされた方がいなかったことだけは救いです。
近くの集合住宅に住んでいる動物たちも飼い主と共に避難することになるでしょう。
一刻も早い復旧を願ってやみません。

昨日のブログでも紹介したとおり、集合住宅で動物と暮らす人が増えています。

一昔前、私が大学生くらいまでは、「庭がないと犬は飼えない」というのが常識でした。
はっきりと覚えがないのですが、ほんの30年くらい前まではそのような価値観であったと記憶しています。
集合住宅はペット不可が当たり前。集合住宅に住んだら犬は飼えないという価値観でした。

ところが、純血種の小型犬を飼うことがブームになり、これに応じるように集合住宅でもペットの飼育が可能と宣伝するペット可集合住宅の販売が急増しました。
これを期にマンション購入を決めた方も多いことと思います。また、ペット不可からペット可集合住宅へ移られた方も多いのではないでしょうか。「庭がなくても犬は飼える」という新しい価値観が生まれたことで、犬の生活は今までとは少し様子をかえていきます。

本当は犬と暮らしたかったけどあきらめていた人たちが、集合住宅でも犬と暮らせることを実現し、喜びを得られたことも確かなことです。
実際にたくさんの方が、集合住宅暮らしで犬と楽しく生活していらっしゃると思います。


今回は、私が集合住宅で犬と暮らした経験を通して学んだことについてお話します。
これは、あくまで個人的な価値観の変化であって、一般的な価値観ではないことを
はじめにお断りしておきます。
そうであったとしても、自分にとっては大きな気づきとなったことは確かなことです。

犬をどのような環境で飼うのかということについては、犬を飼うときに誰もが考えなければいけないことです。外で飼うのか、室内で飼うのかもそのひとつです。

ただ、自分では容易に変えることのできない元の環境があります。
それが「戸建て」で飼うのか、それとも「集合住宅」かということです。

犬を飼う前にこれらの選択ができればいいのでしょうが、そうもいきません。
土台となる家ですから、簡単に変えることもできません。

私が犬のオポを迎えたのは、17年前、福岡の集合住宅に生活していたときです。
ペット系専門学校の講師として勤務していたため、職場に犬を同伴させられるから、犬を留守番をさせる必要がないという単純な発想で、犬を飼うことを決めました。

七山の自然環境に引っ越したのは、共に暮らしていた犬のオポが7歳のときです。
つまり、オポは7歳までは、都会の庭のない集合住宅で私と暮らしていたのです。

オポが生後3ヶ月まで母犬と共に過ごしていた家庭には、家の周囲に囲いのある広い庭があったようです。
私が迎えたときに庭のない空間となり、その不安定な空間に犬も戸惑ったことでしょう。

結論から先に述べると、今は集合住宅で犬を飼うことを選択しません。

なぜ、あのときに集合住宅で犬を飼えると思ったのかというと、
集合住宅で犬を飼うことは、「きちんとやればできること」と思っていたのです。
集合住宅では犬は飼わないと思っていた価値観が、一気に崩れた時でした。

集合住宅でも犬を飼っている人もいるという事実。
そして、自分も犬を迎えたいという欲求が重なり、きちんと育てれば集合住宅でも犬が飼えると思ってしまったのです。
犬をきちんと飼うということは人に迷惑をかけず飼うことであり、自分にはそれができると思ったからです。
少なくとも犬の専門家であり、トレーニングの術も身に付けています。

実際、しつけという意味ではオポは全く問題のない「おりこうな犬」でした。
吠えることもない、リードを引っ張ることもない、とびつくこともない、
家具をかじったこともない、盗み食いもしない、来客には礼儀正しくという犬でした。
隣室の友人宅へはよく遊びにいき、同じ住宅の知人にもよく声をかけられかわいがっていただきました。
私が決めたルールをきちんと守り、健やかに成長していると思っていました。
安定した基盤を提供できていたかなと思っていたのです。

気がかりなことは、時間のあるときに山歩きにいったり、山に住む友人を訪ねたときのオポの表情が、日常で見ているオポとは明らかに違っていたことです。
表情だけでなく、体の動き、輝き、全く違う動物だと感じていました。
結局「いつか山に暮らそうね。」が、約束となっていたのです。
その約束が少し遅れたけど、オポが7歳のときにやっと果たせたというだけのことです。

集合住宅での犬と暮らすことは「人に迷惑をかけずに犬を飼う」という意味では、達成可能だと思います。
犬は飼い主を思いやって、もしくはトレーニングのテクニックによって、飼い主に迷惑をかけずにお利口さんになってくれるでしょう。

ですが、犬という動物としての発達や成長は、自然とのかかわりが影響します。
これらを、都会の集合住宅で実現することは無理なことです。
だから、今は集合住宅や都心で犬を飼うことを自分は選択しません。
でも、人がその環境で犬と暮らしていることを否定はしません。
なぜなら、自分もそうしていた時期があったからです。
だから、どんな人にも犬と学ぶ場所は、どこからスタートしても良いのだと思っています。
犬と学ぶ、犬に学ぶことさえ続けていけば、いつか何かが変わっていくかもしれません。そんな希望がいっぱいあるのです。

先日、知人から借りた古武術の講師の本の中に、自分が生きる意味は「人としての自然とのかかわりを知ること」であるようなことが書いてありました。
犬がそんなことを思っているとはいいませんが、意味を問われて応えられなくても
体が求めていることを求めることと、同じような気がしています。

少し寒くなってきました。小さな犬には厳しい季節ですね。
七山校のぞうりはキツネが持っていったことになっています。
山の動物たちはなんだかワサワサとしています。

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オポと卵

オポと体験した実際にあった話です。

ある日、いつものようにグッドボーイハート七山の家の裏側にある山への道を歩いていました。

歩きはじめて、やっと一段目を登ったくらいのところで、オポが立ち止まります。
オポが立ち止まるときには、なにか用件があるときなので、何故立ち止まったのか様子を伺います。

見ると、オポが地面の方に少しだけ鼻先をおとして、周囲の臭いを嗅いでいます。
脚は止まったまま体は動かそうとしません。
少し嗅ぐと、地面の1点に鼻先を向けてじっと立ち尽くしています。
犬の真後ろから見ている私には、オポが何に顔を向けているのかが見えないのです。

こういう姿勢のときは「あるものを見つけた」というシグナルです。

その鼻先からまっすぐに線を引いた地面に落ちているものを見たとき、ビックリしました。
顔を近づけてよく見ましたがやはり、そう。
「オポくん、これは卵だよね。」というしかありません。

どうして、こんなところに卵が落ちているのだろうと考えることは、今は必要ありません。
この卵をどうしようかということを考える必要があります。

「オポくん、いいよ。」と私が声をかけます。
その声に応じるように、オポがその卵を調べ始めました。

遠巻きに臭いをとっていたものを、もっと鼻先を卵に近づけて臭いをとっています。
卵を殻のまま与えたことはないけど、卵を割っている風景は見たことがあるでしょう。
その卵からどのような臭いがしたのかは想像するしかありません。
オポがこの卵が「食べられるもの」と判断するという予測は固いものでした。
ただ、どの段階で「食べる」という行動に移るのかの検討がつきませんでした。

卵を殻のまま食べてしまうだろうか、口にくわえて割ってしまうのか。
この後のいろんな状況が、頭の中で繰り広げられます。

するとオポは片方の前脚の先の部分、つまり爪先の部分を卵の表面にあて始めました。
後ろ脚は立ったまま、片方の前脚は地面につき、人でいうと「片手で卵の表面をカチカチ」という感じです。
それはとてもソフトな当て方だったので、卵がつぶれてしまうことはなかったのです。

カチカチとさせていると、卵の表面の一部がほんの少し割れました。
表面の一部に少しだけ穴が開いたのです。
その穴の中を少し嗅いで、それから迷わず舌でペロペロと卵の中身をなめ始めたのです。

オポが舌でなめ始めると、卵はさらに割れて中身が見え、
オポはそれを一気に舌ですくい上げて食べてしまいました。
そして、卵の殻は食べなかったのです。
食べ終わると何事もなかったのように、普段の歩速でゆっくりと歩き始めました。

そんな山の中に卵が落ちていることだけでもビックリしたのに、
このオポの卵を調べて食べる一連の動作にも本当にビックリしました。
予想とは違っていたからです。
卵は今まででも与えたことがあったので、臭いを嗅いだらすぐにかぶりつくと思ってしまいました。

犬が偶然が見つけたものと人から与えられたものでは、食べることについてこうも違うものかいう驚きもありました。
人から与えてもらうということの重さを感じることもできました。

なぜ卵が落ちていたのか。それは今でも謎です。
人の入らないようなところだし、鶏が移動するような場所でもありません。
カラスがくわえて落としたのかと思ったのですが、卵は無傷でした。
そして卵の中身がひよこではないかとドキドキしたのですが、中身は生卵でした。
鶏以外の鳥の卵ではないかとも考えてみたけど、どうみてもあれは鶏の卵でした。

山では不思議なことがいっぱいおきたので、これも不思議なことのひとつとしてそれ以上、検証するのは止めにしました。


オポの卵を見つけたときの「反応=シグナル」について補足しておきます。

地面に落ちているもの全てに同じ反応をするわけではないのです。
たとえば、むかご、ブルーベリー、柿の実、うさぎの糞が落ちているときは、
このポーズをとらず、私に知らせることなくこれらを食していました。

この「落ちている方向に体を向けて、脚を大地にしっかりとつけ顔をそちらに向けて」
集中して私の反応を待つとき、そこに落ちているものは何かというと、
大抵は人の所有ではないかとオポが学習を通して学んだものであったようです。

落ちているもの内容によっては、危険かと思い私が拾ってしまったものもありました。
たとえば、公園の隅に捨てられている食べ残しの骨とかです。
見つけたときに、取られてはいけないと慌てて口に入れてしまうようなことはしなかったのです。
街中では危険性が高いものが多く、そのままオポに調べさせるわけにはいきませんでした。
犬が見つけたとしても、「それはダメなんだよ。」と通り過ぎることばかりでした。

山に移ってからは、大丈夫かな思うものは、こうしてオポが調べることを許可しました。
許可は調べるだけでなく、その後のこともオポに任せるという意味です。

あの山に落ちていた卵は、オポにとっては大好物のギフトだったでしょう。
私にとっては、犬の不思議を見せてくれるまた格別のギフトでした。

同じものが都心に落ちていてもオポに調べさせることはできませんでした。
山だからこそできるようになったことのひとつでもあるのです。

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愛犬との別れ

ブログの休みが度々になり、すみません。
書くのも習慣なら、休むのも習慣になってしまいます。

昨日、昨年なくなったオポのお墓参りに寄っていただいたり、
今日もオポのことをたくさん尋ねられたりと、
オポが亡くなってからも、ご縁を感じることばかりです。

思春期をともに過ごした懐かしい友人と、数十年ぶりに再会しました。
オポに会ったこともないのに、オポのことばかり尋ねられました。
私の人生にとって大切な存在であったことを、
直感的に気づかれたからでしょうか。

「よく乗り越えたね。」と言葉をかけていただきました。

愛犬との死別を終えて間もない方に面するとき、
別れを乗り越えられたかどうかは、その方の哀しみの重さのため
気がかりであると同時に、ふれにくい部分でもあります。

だからこそ、こうした言葉かけをいただきける事を有難いと思います。

自分には乗り越えたのかどうかという自覚はあまり無いからです。
悔いがないといえるほど完璧ではないけど、
それより「会えて良かった。ありがとう。」と、思えるのです。

多くの方が、愛犬との様々な死別を通して哀しみを抱えられるでしょう。
飼い主として納得のいかないこともあるかも知れません。

でも、一番大切な共に過ごした時間とその感覚は失われません。

大切な知人や友人はそのことを教えてくれます。


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犬の大切な役割行動:里山の境界線を守る役目

やっと秋の風がふくようになり、本当に久しぶりに山深く犬たちといっしょに歩きました。

オポがいたときは頼りっきりだった山道も、
小さな犬たちを伴って歩くときは、自分が見張り番になるため気合も入ります。

山歩きするとなんだか勇気がわいてきて、少しだけフットワークも軽くなります。


ついつい後回しになってしまう庭草や木の手入れ。
山と家の境界線になっている崖?の草刈へと向かいました。

そこで、今までにないものをみました。
七山校のある里山に過ごして10年近くで、もしかしたら始めてのことかもしれません。

庭の裏手の坂のような場所に、いくつもの掘り返しの後があるのです。

この痕跡の正体は間違いなくイノシシです。
家のすぐ横の場所で、アジサイなどが咲いている根のところも掘り返されていました。
イノシシが庭近くまで接近することはあっても、こんなに近くを掘り返されたのは始めてです。

「境界線がゆるくなってるんだ…」と感じました。


里山は野生動物と人の暮らす里との境界線です。
人の環境に対する開発によって、野生動物はどんどん山の奥へと追いやられてきました。
里山というと、福岡佐賀近郊ではかなり山に近い場所になります。
七山校はそんな野生動物との境界線になる里山に位置しています。

人の暮らす里と、野生動物の暮らす場には境界線が必要です。

境界線があることで、お互いに無益な衝突や事故を防ぐことができます。
野生動物たちは野山で暮らし、人は里で暮らす。

人やは必要なものをその境界線からとって活用していました。
境界線に人が入ることで、動物達は人の気配を感じることができ、
彼らも境界線に近づくときには、十分に警戒するようになるのです。

動物は警戒すると、とっさのときには逃げるという行動を選択できます。
ところが警戒することを忘れると、逃げるタイミングを逃してしまいます。
人の気配に鈍感になり、お互いに近づきすぎてしまうからです。

だから野生動物と人の境界線は、お互いが安らかに生活していくためにとても重要なのです。


境界線が緩んでしまった理由は、すぐに思いつきました。
里山犬のオポがいなくなったことです。

家の前の庭は山に向かっていく上の方向と、車や人の出入りのある下道に向かう方向があります。
どちらも庭の端側になります。
オポはいつも、庭の山側の斜面に近いところで排泄をしていました。

七山にきて庭に立ち寄って排泄をするほとんどの犬が、車や人の出入りのあるシャッターのところに
脚上げ排尿をします。

ところがオポは、車や人の出入りの制限となるシャッターの近くで排泄することはありませんでした。
下道で排泄をするときは、その境界線よりもう少し下のところで行いましたが、
シャッターが閉まっているときにはその方向には出られませんので、下道での排泄はできません。

下道での排泄はちょうど、下の家にオポがいたころにいた犬との境界線にあたっているように思えました。

山手の方には竹やぶのあるところがあって、そこがイノシシの通り道になっていたようです。
森から竹やぶへと隠れることができるため、移動しやすいからです。
竹やぶはうちの敷地ではないので刈り込みされないままになっています。
そのイノシシの通る道との境になる、刈り込まれているうちの敷地の最先端で、
オポはいつも排泄をしていました。

そのオポという犬の排泄は、野生動物との境界線をはっきりとさせるものであったようです。
その排泄のラインから内側でイノシシの気配を感じるのは、夜暗くなったあとでした。
それでもそこにイノシシがいるときには、私の気配を察してすばやく竹やぶに戻っていきました。

オポといっしょに庭に出たときも、イノシシの動く気配を感じましたが、
逃げるイノシシの気配にオポが顔を上げることがあっても、追うことはありませんでした。
境界線が守られているということを、わかっていたのかもしれません。


犬は山との境界線を守り、人は人里からの境界線を守る。

そんな風に役割分担されていたように思えます。

用件があってシャッターの境界線や家の戸口の境界線を越えることを私が許可した人を、
オポが攻撃したり追い立てたことは一度もありません。
その代わり、その人たちに対してきちんとルールを伝え、テリトリーを安定させることは
私の大切な仕事でした。


オポという犬が境界線をつくってくれていることを、なんとなく知ってはいたものの
こうやって、事実上イノシシが侵入してくる足跡を目にすると
その役割の大きさと重さに、大切な仕事をしていてくれたのだと頭の下がる思いです。


さて、現実的な問題を考える必要があります。
イノシシを寄せ付けないためにできること。

草や藪をもっときれいに刈り払うことです。


野生動物は身を隠す場所のないことを嫌います。
藪があれば藪にかくれれ侵入します。
森と家の間は、草刈がなかなかうまく進まない場所なのです。
経験したことのない方は実際にやってみるとわかりますが
枯れ草剤を使いたくなる気持ちだけは理解できます。
でも、それを使ってしまっては負けだと感じるのは私だけでしょうか。

里山の境界線を守る仕事は、どんな犬にでもできることではありません。
だから、犬を飼えばいいという簡単な問題でもないのです。

できることからひとつずつ。


ということで、秋の草刈大会はじまりました。

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グッドボーイハート畑部☆部員募集☆

犬と共に自然を肌で感じながら生活するという時間をいただいたとき、最初に思いついたのが「畑をつくる」ということでした。

ところが、最初につくったこの畑はすぐに終了してしまいました。
理由はいくつかあります。
他にもすることがたくさんあったため後回しになった。
おいしくて安い野菜が近くの産直店で手に入った。
失敗が続いた。
根気がなかった。
など、結局は努力不足ということです。

初期の小さな畑はオポを釘付けにしていました。
簡単にできるのだと思ったトマト、キュウリ、カボチャ、オクラ、ナスの苗を植えていたのですが、そのうちトマトとキュウリはオポの大好物だったからです。

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柵をつくったけど届いてしまうミラクル


普段は食器の中に入っているトマトや人の手をつかってしか食べられないキュウリが、目の前にぶら下がっているのです。
「え、それまだ早いでしょ。」という出来具合のものを片っ端から食べてしまうため、結局、畑に柵を作ることになりました。

このことで、わたしは入れてもオポの入れない空間ができてしまい、そのことがわたしを畑から遠ざけてしまう理由にもなってしまったと思います。

その後、畑部は一度復活しました。
若い生徒さんたちが「先生!畑を作りましょうよ。」といって開墾を始めたのです。
七山校のクラスに参加するたびに手入れをしてくれたのですが、日々の手入れは必要です。
畑の面倒をよくみず、雑草の中に野菜たちが埋もれていくようになりました。
これで畑部は解散となりました。

そのグッドボーイハート畑部が、このたびついに復活します。
今回は新しい畑部長Kさんが畑の開墾をはじめてくれました。
灰を混ぜ込む2回目の耕し作業を終えられたところです。

畑20160804開墾
部員のわたしも積極的に参加せねばと奮い立ち、畑横の竹やぶ払いを行いました。
助っ人にお手伝いいただき、畑に風がとおるようになりました。

食べるものを育てるという基本的なこと。
頭ではわかっていてもなかなかできません。
自然の生活に近づくことも、大切なこととわかっていても同じことです。
そういうときは、誰かがやるのを最初は見守ったり手伝ったりすることでもいいでしょう。

グッドボーイハート畑部の畑でとれた野菜を、人と犬がいっしょに食べられるようになるまで
がんばります!


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回想「オポのこと:人との関わり」

犬のパートナーだったオポが亡くなって、今日で7ヶ月たちました。
今でもお参りに来てくださる方います。そんなオポを知る方々を思い出話しをするたびに、オポがいろんな人や犬と関わりを持ちながら生きてきたことや、その中でオポから教えられたことも同時に思い出していきます。

グッドボーイハートの一員として、家庭訪問のトレーニングに付き添って手伝いをしてくれたり、デイケアクラスの先生をしたり、お散歩会のリーダーをしたり、みんなでキャンプにいったときのお世話など、その仕事は大変なもので、オポに頼りすぎてしまったことを今でも飼い主として深く反省しています。

オポのことを本当に心に留めてくださった人は、イベントような人や犬がたくさん集まる会の中のオポよりも、オポと一対一でお付き合いしてくださった方々なのだという事を実感しています。グッドボーイハートでは全体のリーダーとしてはたらくため、オポを表面的に見られた場合には「厳しい、こわい、迫力がある」といわれることもありました。ところが実際のオポは、お茶目でゆるやかで寛大なゆったりした犬です。(飼い主の惚れた欲目もありますね。)

特徴的であったことは、人であれ犬であれ、一対一できちんと向き合うことのできる犬であったことです。それは人からオヤツをもらえることとは異なる関係の作り方です。生徒さんとして迎えた人と犬には積極的にあいさつをし、要求はせず、よく観察し、相手が自分にコミュニケーションを求めたときは必要であれば応じるという態度でした。ですが、相手が自分を試すようなことをしたり、からかうようなことや上の空でいるような態度のときには、コミュニケーションに応じないという行動をみせることもありました。特に七山に移ってオポに行動の自由が獲得されてからは、その選択はハッキリしたものでした。

とはいえ、クラス終了後にして私が忙しくしているときに、話しかけられそうな生徒さんに自らコンタクトをとって誘導し、指定の場所に連れていくということもやっていました。「先生、オポさんがきゅうりのストックのところへ案内するんですけど…」と困惑されて飼い主の私が呼ばれることなどは、七山校では日常の風景だったように思えます。

オポにはグッドボーイハートのモデル犬にはなってほしくありませんでした。オポをアイドルにしたいとも思わなかった。オポがグッドボーイハートの活動の中で行うことに対しては、飼い主の私のしている仕事を知りできることをしているのだと感じ、パートナーとしてリスペクトし、有難く受け取っていたものです。その中でオポ自身は一頭の犬としてひとりひとりと関係を作っていたのだと知り、それはオポが選択したことであり、彼の生きる道の中での必然の出会いだったのだと思っています。

一方で犬たちは、オポの墓参りをしたりオポを思い出すこともありません。それでもオポがグッドボーイハートで出会ったどの犬とも、やはり一対一で向き合うことこそ大切なことなのだとういことを教えてくれました。そのことが互いに心がふれあうという体験であって、その体験は思い出すことがなくてもそれぞれの命の中にエネルギーを与えてくれたものだと信じています。

たくさんの心に足跡を残したオポ。

その力強い生き方に敬意を表し、後に続きたいと思います。

オポのお墓20160710


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