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渋谷の忠犬ハチ公は普通の野良犬だったという事実:犬のFACT(ファクト)をそのまま尊重することについて

 先日レッスン中に飼い主さんと、犬の服従性の発達の重要さと依存的な行動の違いについて説明をしていました。そのとき飼い主さんからハチ公の名前が出て「えーー!本当ですか?!」という意外に大きな反応をいただいたので、今日はそのハチ公をテーマにお話しします。


● ハチ公は本当に亡くなった飼い主を待って渋谷駅に通ってきたのか?

 そもそも、ハチ公が忠犬として銅像を立てられ、教科書に「恩を忘れないこと」を教えるための教材として取り上げられ、そしてついにあのリチャードギア主演の映画にまでなってしまった理由は、ハチ公の忠犬としての涙なくしては語れない物語にありました。

 そのハチ公の物語とはあまりにも有名なのでここで説明するまでもないでしょう。つまり、勤務先で亡くなった飼い主の死を知ることもなく、飼い主の帰りを待っている飼い主に忠実な犬「ハチ公物語」です。犬が飼い主に忠実だというのは、ハチ公が物語になる前から取り上げられていることです。

 故事にも「飼い犬に噛まれる」というものがあります。恩を仇で返されるという意味のことわざです。犬は飼い主に忠実であるということが前提でのことわざですが、忠実といっても様々な形があります。3日えさをもらうと3年恩を忘れないなどといわれることもありますが、確かに食にありつける場がないときに、3日もえさにありつければえさをくれた人を長い間忘れずにまた通ってくるというのは、イヌという動物の知性の高さによる行動そのものです。

 しかし、ハチ公の忠犬性は食べ物とは切り離されて報道されていました。老犬のハチ公は飼い主の死も知らずに毎日渋谷駅へと通ってくる恩を忘れない犬として紹介されたのです。もともとハチ公は秋田犬だったのですが、その秋田犬を見た日本犬協会の役員が朝日新聞に忠犬物語として紹介した記事が掲載され、ハチ公ブームが巻き起こったのです。

 しかし実際のハチ公は、飼い主の死後一旦は別の家に引き取られたがその家にいつかず、結局元の家に戻されたが駅近くをうろついていたということです。というのも渋谷駅前には当時夕方になると屋台が出ていたからです。最初の飼い主も屋台を利用するうちにハチ公もおこぼれにあずかり、そのうち飼い主がいなくとも屋台で焼き鳥を食べる客から焼き鳥をもらっていたのでしょう。実際、ハチ公が死亡して解剖されたときには胃の中から焼き鳥の串が3,4本出てきたという記録も残っているようです。

 お腹もすかせて飼い主を待ち続ける忠犬ハチ公ではなく、大好きな焼き鳥をもらいに渋谷駅に通い続けた野良犬ハチ公だというのが、本来のハチ公の姿なのでしょう。こちらの方が犬としては本来的な行動であり、とても納得のいくものです。

ハチ公

● ハチ公をめぐる誹謗中傷事件もあったこと

 そのハチ公をめぐって誹謗中傷が起きていた事実もありました。つまり、ハチ公は渋谷駅の屋台の食べ物を狙っていた駄犬であって忠犬ではないというものだったようです。この誹謗中傷には、各団体の利権争いも絡まっていたようで、こうしたものはいつの時代にも起きていたのだなと権威や利益を争う人々の思惑が見え隠れします。

 背景やハチ公の残されている行動を見れば、ハチ公が餌をもらうために渋谷駅をうろついていたことは間違いのない事実でしょう。かといってハチ公が忠犬でないということも筋が立ちません。飼い主に可愛がられ、飼い主と共に立ち寄った焼き鳥屋で焼き鳥をもらい、飼い主の亡きあともその屋台の客らに可愛がられて焼き鳥をもらっていたハチ公は、それだけで忠犬であるからです。ハチ公は飼い主の家に居つかない野良犬であり、そして亡くなった飼い主にとっては忠犬でもあったのです。

 ハチ公をめぐる事件については、以下のホームページで当時交わされた手紙を取り上げて詳しくとりあげられています。
★参考資料★
忠犬ハチ公への中傷事例について←「帝國の犬たち」ホームページに掲載されています。


● 普通の野良犬だったハチ公の事実が広がらないメディアの報道と人々犬に求めるもの

 ハチ公が野良犬であった事実について、中傷されなければいけない理由はどこにもありません。もしあるとすれば、ハチ公が特別の忠誠心を示した犬であるという報道に対して、それはうそではないかという騙されたことに対する思いからくるものであればわかります。もしそうであれば、それはハチ公やハチ公の飼い主に対して向けられるものではなく、報道したメディアやそれを考えなくそのまま広げてきた各所機関に対して一旦は向けられるかもしれません。

 しかし、その次に向けられなければいけないのは自分に対する質問です。自分自身がこのハチ公の感動の物語を聞いたときに「これは犬としては何かおかしくないか?」という違和感を覚えられなかったほど、犬についての理解が進んでいなかったという事実を認めるのが先決です。その上で、ハチという犬がそのままで亡き飼い主や地域の人々とそれなりに関わりあいながら野良犬ハチとしてよい日々を送っていたのであれば、それはそれでいいではないでしょうか。

 むしろ、ハチがハチ公として新聞に取り上げられた後、まだ生存していたハチを見ようと見物人がおしかけることがハチの人生を変えてしまったであろうと悲しく思います。ハチ公の銅像は人々の善意の募金によって建てられました。ハチは亡くなったあと解剖され剥製にされて保存されています。ハチは剥製にされることを望んだのでしょうか。これは人の善意なのでしょうか。

 犬は本当にすばらしい動物です。ハチもきっと人にとびつく多少怖がりの傾向のある犬で、でも上手にみんなに大好きな焼き鳥をもらって生きていたのでしょう。その生をそのまま尊重できるような価値観は、これからも犬を救うと思います。

 さて、名犬ラッシーは本当に名犬だったのか。ぜひ疑問を持って犬の事実をしり、その事実の中から犬がどのように扱われてきたのか、もしくは犬として尊重されてきたのかという事実を組みとっていくと新しい見方が育ちます。犬には不幸な歴史もたくさんあります。それは大きな学びなのですが、それすら見えなくなってしまい、人は犬を愛している、犬も人のことが大好きだという妄想に浸るよりも、真実の中に犬のすばらしさを見出して行きたいと思います。

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