グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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<自然のこと>一晩中光る稲妻と響く雷鳴の元で動物になる

昨晩は七山で今年一番の雷の夜となりました。

七山の野菜屋の名前が「鳴神の庄(なるかみのしょう)」ですから、七山は雷の多い地区であることは間違いありません。

七山の家にいるときにはっきりと視覚的に雷を見ることができました。

雷というのは「雷が落ちる」のことばのように上から下に落ちるものだとずっと思っていたのですが実際には違いました。

雷は地面から突き上げられるように上に向かっていく感じなのです。

上から落ちる電流と交わり空中で火花を散ったように赤くなるのが窓から見えます。

バキバキという音と花火のような赤い光が数秒毎に連続して起きるのですから慣れていなければ大変怖いものだと思います。

私も自然の中で暮らしたことなどなく愛犬オポと共に七山に来た雷を体験したときには本当に大変な思いをしました。

でも特別危険なものに対するオポの反応を頼りにしていたので、雷が自分に対して影響を及ぼさないことも自然とわかるようになりました。

それでもいくつかのことをすればというのが条件ではありましたが…。

※ここでは省きます。

結局のところ野生動物たちはどうしているかというとそれぞれに巣穴や地面に近い場所に身を潜めて雷が通るのを待ちます。

室内では安全のように思えるのですが、木々は通電しやすいため木製の家はやんわりと電磁波に包まれます。

雷に当たって爆発するとか痛手を受けるというダメージではなくって、やんわりと大きな電磁波に包まれるような感じです。

都心の犬たちには雷恐怖症の症状をよく見かけましたが、ご自宅で雷恐怖症である犬も七山に連れてきている間にはその反応が見られないことが度々あり不思議に思っています。

私自身もかなり感覚は敏感な方だと思いますが、昨晩の雷の間中体の部分的にしびれが流れるような感覚を受けていました。

それは怖いというよりはどちらかというと気持ちが良いという感じなのです。

おかげで今日は体がすっきりとしていていつも以上に活発に行動できました。

犬たちが雷をどのように受け取っているのか、クレートの中にいる状態ではのぞき見るのも失礼ですが、騒いで手に負えなかったという記憶はありません。

怖いと思ってしまうと何も感じられないのでしょうが、すべてを手放して受け取る気持ちになると入ってくる感覚なのかもしれません。

動物は準備さえできればそうなるような気がするのです。

犬と向き合う職業病だと思いますが、自分は人よりもかなり動物に近い感覚なのだと思います。

こんなとき犬とは共感できるなと感じられる不思議な時間でした。

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<トレッキングクラス>梅雨の晴れ間にトレッキングデビューのゴールデンくん

今日は梅雨の晴れ間にタイミングよくトレッキングデビューした犬ちゃんがいました。

年齢は9歳。

大型犬の9歳というと年を取っていると感じる方もいらっしゃるでしょう。

4つ足の動物は10年生きれば御の字ですから9歳は若いとは言えません。

人生のどのタイミングでも変化を求めるのに諦める年齢ではないと思います。

もし私が80才とか90才であっても残されたあと数日の人生の中であっても自分の中にあるひとつの扉が開く機会があるのであればそれを開けたいと思うでしょう。

犬の方はもっと前向きです。

犬は残りの人生を憂えたり計算したりすることがないからです。

しかも犬の一年は人間の7年分です。

犬の1ケ月は人の半年以上です。

犬の1日は人の一週間に相当する時間です。

高齢でトレーニングを始めるのは子犬でトレーニングを始めるのとは確かに違います。

家庭訪問トレーニングのクラスと併用して七山のトレッキングクラスに参加される犬ちゃんの多くは中高年以上です。

トレッキングクラスは家庭訪問トレーニングで環境を整えつつも、ひとつでもできることを進めたいという飼い主さんの気持ちを支えるでしょう。

ご自宅では犬の管理練習から始まるため、今まで犬と日常的にやっていたようなコミュニケーションが減ってしまい飼い主としては物足りなさを感じることもあるでしょう。

でも犬の方は今、飼い主の満足を満たせるような状態ではないのです。

少し犬の立場に立ってみたり考えたりできるようになると今までと違った世界が見えてくるようになり、犬に対して自分ができることの方向性も変化してきます。

トレッキングクラスには飼い主の学びもたくさん詰まっています。

ただ山で時間を過ごすというそれだけのことなのに、何か違いを感じられるようになったら本当の変化が生まれます。

結果よりも過程が大切。

楽しかった時間、癒された時間、共有する時間を大切にするだけです。



グッドボーイハートのトレッキングクラス






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<自然のこと>日本の里山が失われることを憂える自分

先日テレビの報道特集という番組にくぎ付けになりました。

報道された内容は佐賀県の石木ダムに関する紛争の歴史を地域住民の側に立って追ったものでした。

石木ダム建設案が出てから50年間にわたり、ダム建設を進めようとする長崎県と建設に反対する住民の間で長い長い闘いが続いている悲惨な様子を映像で見ました。

ダム建設が予定されている川棚町のこうばる地区の風景は、まさに日本の原風景ともいえる「ふるさと」の風景です。

都会で育ち田舎を知らない自分ですらも眺めるとほっとするこうばる地区のような自然豊富な里山が失われないようにと体を張って戦っている方々がいる、それが50年以上も続いていることに胸が痛くなりました。

しかもそのことで多くの人が救われるのなら納得がいくものの、ダム建設の必要性についても納得のいくデータがなく、500億円以上というお金が長崎県民の負担によるということをみなさんはどう思っているのだろう、一体これは誰のための何のためのプロジェクトなのだろうと疑問を感じずにはいられませんでした。

番組ひとつを見ただけで自分が賛否を下す情報を得たとは思いません。

ただ画面の中にうつるその景色は、住民の方々にとってかけがえのないものであるのと同じように私たちにとっても同じようにかけがえのないものではないかと感じたのです。

今このように思う私も、七山という里に出会わず博多駅の近くだけで快適な生活をしていれば、おそらくこんな気持ちになることもなかったと思います。

日本の美しい里山はただの自然でなく人々がそこに住み、自然を大切にしながらも利用しつづけてきた共生の風景なのです。

それは数年で出来上がるものではなく、何十年も何百年もかけて継続して毎日繰り返される生活の積み重ねの風景なのです。

そしてその風景の中にきっと「犬」という動物もずっと共にいたはずです。

里山には犬の居場所があったのです。

どうやったら石木ダムの問題がより良い形で解決するのか私にはわかりません。

ただいえることはこうばる地区は間違いなく日本の里山であり、日本の原風景であり、そして大切にしたいと思える風景だということです。

雨でも野草の中でジャンプして走る犬ちゃん

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<犬のこと>犬にとって大切なのは野草と雑草とやわらかな土

お預かりクラスで犬ちゃんが庭や山で遊んでいる傍らで、まだまだやり残した例の背高草の撤去を進めています。

詳しくはこちら

過去ブログ記事→<日々のこと>環境にダメージ与えた事に気づき引き返したこと

一時間で100本くらいは抜き取っているのですが、この雨の中、土の中から次から次へと生えてくる生命力の強さに負けそうです。

でも七山の本来の野草や雑草たちが抜き取られた草のスペースを埋めるように生えてきてくれているので、風景はずいぶんと取り戻してきました。

除草剤や殺虫剤は本来の植物を殺してしまいます。

ガーデニングといってもいろいろとあるのでしょうが、死に絶えた庭に花をかざるように植える風景はあまり見慣れていません。

自分の小さいころにいっしょに暮らしていた柴犬が遊んでいたあの昭和の小さな博多区の一軒家の庭もしゃれた洋風の花はなく、日本古来の木々と雑草でおおわれていました。

子供のころに庭にあった木は、びわ、さくら、あじさい、梅、もみじ、柿、榊、つつじ、いぬまき、南天、シュロ、椿…たちでした。

いまここにあげた木々ですが不思議なことに七山のこの庭と山に全部あるのです。

木々のふもとにはユキノシタ、イヌフグリ、スミレ、セリ、オオバコ、カタバミ、タンポポ、ハマスゲ、リュウノヒゲ、ドクダミ、ホトケノザ、セイタカアワダチソウ、アザミ、ハコベ、スギナ、ハハコグサ…

認識できるのはこのくらいです。

雑草はもっとたくさんあるのですが名前がわからないものばかりです。

除草剤の後の悲惨は光景はちょっとした砂漠化でした。

土が枯れてしまい砂漠に雑草が立ち生えるようにして生えていたのです。

同じ光景をあちこちの駐車場で見ることができます。

雨の浄化作用もあって本来の野草が戻ってくると犬はイキイキと草の臭いを嗅いで寝転がって遊びます。

駐車場ではこんな風景を見ることはありません。

人は自然を楽しむために遠くに出かけるようになりましたが、自分の庭に自然を取り戻すことはできません。

なぜなら自然の野草や雑草と共に虫たちもかえってくるからです。

人は虫が苦手です。私だって決して好きではありません。

関わりあいたいと思うこともありません。

でも、野草や雑草と共に生きている虫という生物がいることを否定できないのです。

それを否定すればまた犬を、そして私たち人間をも否定してしまうことになります。

日本は山林地区がたくさんあります。

手の入っているのは農地だけ、お金にならない山は放置されています。

山や雑草との闘いは半端ないのです。

でも犬たちは不思議と私たち人間が雑草と戦っているとテンションマックスで応援してくれます。

頑張れ!頑張れ!といってくれているようで、誰のために頑張るのかわからないまま山の手入れをがんばっています。

犬たちにとって大切なものだと思うからこそ今のところは頑張ります。

草を食む犬の姿が、草に寝転がる犬の姿が私は好きなのです。

日本の本来の雑草や野草を復活させて、二ホンミツバチがかえってきたら、犬たちも本来の自分を取り戻せるのではないかとそんな気がしているからです。

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<犬のこと>犬の社会化をもう一度考えるヒント

犬の社会化という言葉をご存知でしょうか。

ほとんどの犬のしつけの本には見られるようになった「犬の社会化」というワードが広がり始めたのはここ20年くらいではないかと思います。

自分の学生時代に暮らしていた犬の社会化など考えたこともありませんでした。

その言葉を聞いたのは犬の仕事に就いたときで、そのときですら犬の社会化というものに対して科学的に説明してくれる先輩はいませんでした。

その後の犬のセミナーでなんども社会化という言葉を聞きました。

なんとなくぼやけてしまう社会化ですが、科学的に納得のいく説明文になるとこうです。

「犬の社会化とは犬が環境の中で持続的に行動を通して安心を獲得していく活動のこと」

犬と暮らしているみなさんに、この言葉の意味がわかるでしょうか。

この文章をもう少しわかりやすく数行にわけてみます。

・犬の社会化とは環境の中で持続的に行われる

つまり犬の社会化はずっと継続するもので、一時的に行われ終了するものではないのです。

犬の社会化とは生涯を通して継続する社会的機能の発達なのです。

・犬の社会化は犬が環境の中で行動することで身につく

犬の社会化とは犬が自ら行動することで身についていきます。

つまりは、犬に一方的に刺激を与えることでは実現しないということです。

なので、犬を抱っこして散歩しても全く社会化は身につかないということになります。

・犬の社会化とは安心を獲得する中で実現する

犬の社会化とは犬の脳の機能性が高まり、自らの行動を通して安心を得ることの繰り返しのことをいいます。

これは大丈夫、これはこのように回避する、これはこのように対応することで攻撃を免れる、などすべてが安心獲得の作業なのです。

ですから犬と走り回ることで安心を獲得するのではありません。

闘争行動、逃走行動、興奮行動の繰り返しは社会化を促進しないのです。

 

犬の社会化学習を説明する際に、刺激を与えることではないということだけでもわかっていただきたいのですが、なぜかたくさんの人や犬のいるところに子犬を連れていきたい飼い主さんが多いのに驚きます。

あなたの犬のもっとも大切な社会化は、まずテリトリーを獲得すること、身近な飼い主という動物を理解することです。


 

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<犬のこと>自然が犬に与える尊い時間を人は知っているのか

家庭訪問トレーニングを利用している犬ちゃんたちがときどき預かりクラスで七山にやってきます。

ほとんどが生徒さんのやむにやまれぬ事情で不在となり、犬ちゃんを窮屈な場所で過ごさせるよりは自然の中で過ごしてほしという気持ちから預かりクラスを利用されています。

はじめて犬ちゃんが七山にお泊りに来たときには、どのくらいの速度で環境の変化に適応していくのか、どのように自然と付き合おうとするのかを観察しています。

純血種の犬たちの多くは、その犬の親もまたその親も親も自然の中で過ごした体験を持たないでしょう。

犬舎でほとんどの時間を生きた犬たちの子どもたちが今こうして人と暮らしているのです。

犬舎で生まれた子犬たちが人に飼われるようになりそのまま人社会の中に「人として」大切にされ始めることはとても危険です。

動物はどんな動物であっても、自分は人である、自分は犬であると感じる時間があることが基盤になっているからです。

お預かりの犬ちゃんがどこで排泄をするのか、

空間をどのように把握していくのか、

土や草の臭いをどのように嗅いでどのように反応するのか、

そして最後は人や他の犬に対してどのように行動するのか、

こうした観察が今の犬ちゃんの状態を知らせてくれます。

風が吹いても鼻先をあげて臭いをとろうとしない犬

広い敷地でせわしなく動いてしまう犬

太陽に自分の身をゆだねることをできぬ犬など

自然が遠くなってしまったのは人だけでなく犬とて同じことです。

その犬たちがどうやって自然とつながりを持っているのか、犬の脳の中で起きていることや皮膚の上で感じていることを私たちは知る術を持ちません。

ただ言えるのは、私たちには鋭い観察をする視覚という武器があります。

そして共感というセンサーがあるのです。

犬に対する思い込みをすててすべてを受け取り、本来の犬の姿を見たいと願えばおのずと自分のやるべきことは決まってきます。

飼い主としてやるべきことはあまりにも多く、特に空間も時間も少ない都会では果たすことすら難しいことがあります。

それでも犬を愛しているなら犬とどのように過ごすのかを考えてみる、これもまたコロナ時代だからこそできることです。

お預かりクラスで対面する犬ちゃんたち



 

 

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<日々のこと>自然環境にダメージ与えた事に気づき引き返したこと

今年の草刈りのシーズンは特別な季節になりました。

山と向き合って草と戦って13年目の今年、ある間違いに気づいたからです。

間違いとは一作年から山の一部に使った除草剤のことです。

犬が歩く山だから除草剤は絶対に使わないというルールで10年以上頑張ってきました。

でもこの2年ほど福岡での訪問レッスンで時間が過ぎていき、七山に来たときには預かり犬ちゃんたちのお世話に時間を使いました。

結果、七山で草刈りをする時間が減ってしまい雑草は生え放題になり手に負えなくなってしまいました。

そんなとき「生えている草だけを枯らして根は殺さない、環境に影響をあまり与えない除草剤」があることを知りました。

除草剤もずいぶん進化したのだ、ペットや子供にも優しいものも商品化されている、これなら犬が歩かない場所につかっても大丈夫かも…。

そう思って歩行場所ではない裏などの一部に除草剤を使いました。

そして今年裏庭や山に登る周辺を見渡しているときに気づいたことがありました。

違う、いつもと山の、庭の風景が違うのです。

これまでなかった草が生えている。

あの背の高い草は都心によく生えている、駐車場に生えている草だ。

その背の高い草がたくさん生えている部分には今までなじみの風景だった野草や雑草が生えていないのです。

除草剤を使った部分はとくに環境の変化が激しく、毎年見てきた風景とは違うと気づき愕然としました。

自分が深く考えもせずにやった些細なことが環境にダメージを与えたのです。

土が変わってしまう…どうやって引き返したらいいのだろうか…。

しばらくその風景を見つつぼーっと考えました。

そして決めたのです。

街中で見慣れた、でも七山にはふさわしくないその草を取り去ることを決めました。

草を刈ると雑草はますます強くなってしまうので、特定の草を目標に根から抜き取ることにしました。

たくさんの草の中から特定の草だけを抜いていく作業、気が遠くなるほど大変な戦いが始まりました。

敷地面積は何百坪もありはいつくばって草を抜いていく作業を30分でも1時間でも繰り返す、取り戻すのはこれしかないからやるしかない。

数日の草抜きのあと4日後の今日また庭を見回りました。

風景が変わっているのです。

駐車場みたいだった庭にもともと自生していたあの草たちが芽を吹き出して戻ってきたのです。

再び生えてきたあの見慣れぬ草をまたはいつくばって草を抜いていきます。

これを繰り返せば元の庭と山に戻せるかもしれないと少し安堵しました。

自然の中に人工的な操作をするときにはその力の影響の強さを考える必要がある。

ずっとこのことを学んできたのに自分の足元から負けてしまったことに猛烈に反省しました。

人の操作は自然なものを管理して維持しつつそこから恵みをもらうなら良し、でも力を使い過ぎて自然そのものを破壊してしまうなら自分を破壊するのと同じことです。

自分の間違いに気づいて早く引き戻すことでなんとか破壊を止められそうです。

そしたら戻ってきた本来の草たちといつも通りの戦いが始まるだけです。

自然と共には甘くない、毎日が戦いそしてお互いに強くなれます。


 

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<オポのこと>カラスが休んでいた場所にあの日オポもいた

先日のブログに書いたトレッキング中に出会った山にうずくまるカラスのこと。

<自然のこと>野生動物にもある仲間意識が消えゆく犬たち

このときに鮮明に思い出したことがあります。

ああ、あの時にオポも傷ついたカラスが休んでいたこの杣で一日を過ごしたのだということを思い出ました。

オポが12歳の時のことです。

ある夜にオポが不調の状態となり、嘔吐を繰り返し室内にも戻ってきませんでした。

嘔吐の中には血液もまじり、何か体から出したいものがあるけれど出てこない…そんな状態で土の上に腹をつけて一の字でじっとして動かなくなりました。

そばでじっと様子をうかがっていましたが、明け方4時くらいに寒くなり私は部屋に入っていました。

夜が明け始めるとオポが私のところに来てまっすぐと立って私を見つめつつ体重を少し後ろ脚にかけています。

私がたちあがるとオポも動き出し、山に行くのだとすぐにわかりました。

着の身着のままでまだ冷えの残っていた山に登るオポの後について登りました。

なんども下血しながら息を切らしながら山を登るオポ。

黙ってオポのうしろをついて歩きます。

そしてついた山の杣に伏せるオポ。

やはり腹をしたにして一の字になってじっとしています。

結局夕方までここから動かず…。

夜には家に自力で戻りました。

数日後には食事をとるようになり12歳の波を超えたのです。

あのオポが癒しを求めた場と同じ場で、カラスも癒されていたのだと知って「なぜ同じ場所なの?」と不思議に思いました。

私たちが知らない何かを動物たちは知っているのかもしれません。

本能というものなのでしょうが、本当に自分にとって必要なものなのでしょう。

自分はまだそれを知らないような気がする。

そんなことも知らずに死んでいく人間に飼われている犬たちが幸せになるのだろうかと深く反省します。

とりあえずは日々の果たすべき役目を果たすのみ、その積み重ねが脳の奥にある気づきを目覚めさせてくれると思うしかありません。

その後カラスは姿を消しました。

元気に飛び立ったのか、新たな世界へ旅立ったのか、そんな思いで犬たちと山歩きを続けます。

尾歩山のテント場で休むオポ

Posted in 自然のこと, オポのこと

<自然のこと>野生動物にもある仲間意識が消えゆく犬たち

犬たちとトレッキングクラスで尾歩山を歩いていたときのことです。

木々の上からガアガアとカラスの威嚇する声が聞こえます。

あきらかに「こっちにくるな」という低い鳴き声で数羽が私たちに向かってないています。

動物の死骸とかゴミかなにか餌でも持ち込んでいるのかと思って少し進むと、数m先に木の根元にうずくまるカラスを発見しました。

羽ばたきをぎこちなくして数メートル移動したが、明らかにケガをしている様子でした。

体を休めている傷ついたカラスに近付くなと仲間のカラスから威嚇されたのでした。

ケガをしたカラスが少し脇に移動してくれたので、わたしたちは犬を連れてそのまま山道を通過しました。

犬たちもカラスを追う気配を見せなかったので仲間カラスの襲撃を受けることはありませんでした。

それにしても、野生動物たちの群れの仲間意識の高さには驚かされます。

カラスといえば都会のごみ捨て場ではごみを奪いあっているカラスの姿しか見たことがなく、こんなに仲間意識が高い動物だったのかと感心しました。

自然環境の中では敵が多く、同じ種同士は結託しなければ生き永らえないのでしょう。

またゴミなどの資源を奪いあうよりも、力を合わせて大物を狩ることで食べ物を得ているためより仲間を必要とするのでしょう。

イヌ科動物も人が犬に関与するまでは犬同士が守りあう存在だったのでしょうが、人から餌をもらうようになってからは餌やテリトリーを奪い合うように変化してしまいました。

犬同士が本当に力を合わせるという姿を見ることはなかなかありません。

それでもトレッキングクラスの最中は野生動物に対しての恐怖からかグループ制が少しだけ高まります。

梅雨入りまでカウントダウンですが、梅雨の合間も社会性を育てる機会を山歩きで作っていきましょう。

 

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<自然のこと>超えてはいけない動物の境界線について松沢哲郎先生から学んだこと

先日のブログで紹介した本「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」をアマゾンのほしいものリストに入れていただけたでしょうか?

この本の監訳を担当された松沢哲郎先生からもたくさんのことを教えていただきました。

もちろん松沢先生の著者やビデオ、配信されている動画や数々の記事などを読んで自分なりに学んだのです。

ですから松沢先生が本当に伝えたいことを自分が受け取れているかどうか自信はありません。

ただ明らかに松沢先生からも確実に教えていたただいたことは「動物と関わる上で超えてはいけない境界線について」考えることです。

こうして考えるきっかけをいろんな動物の専門家から受け取ることで、犬以外の動物にもちゃんと人との境界線があるのだと深く思うようになりました。

そもそも犬以外の動物で自分が深くかかわったことがあるのは、幼少期に飼育していたインコとハムスターくらいです。

他の野生動物は動物園の檻という境界線に阻まれて直接触れることすらできない関係でしかありません。

その野生動物と接する人々の動物との関わりによって彼らの持っている世界への理解は大きく違うのだと感じたことが数ヶ月前にありました。

それは人工飼育されたチンパンジーとその飼育員が対面するという感動ものらしいテレビ番組でした。

動物もののテレビ番組には怒りを憤りを感じてしまうことが多いのでほとんど見ないようにしている私に、「これってどうなの?」と質問を投げかけてくるダンナくんが私に見せたものです。

番組の内容は、未熟児のチンパンジーを母親から隔離して人工飼育で育てた結果、母親にも父親にも兄弟にも受け入れてもらうことができず、結局群れには帰れず檻の中でひとりで過ごすことになったチンパンジーの話でした。

ですがそのチンパンジーには転機が訪れたらしく、飼育員が自分が育てたチンパンジーの生活の変化に涙して喜ぶという内容でした。

チンパンジーが無事に群れに戻ったというのなら本当に涙なのですが、実はチンパンジーが移動した先はサーカス軍団の中でした。昔でいう猿回しの集団の中に入って芸をしていたのです。

その芸の場面にはたのチンパンジーも同じようにいっしょに芸をしており、その姿をみて「あの孤独だったチンパンジーが仲間といっしょに楽しく過ごすことができるようになった。」と会場一同が感動するという番組でした。

おそらくテレビ番組を見ているほとんどの人が微笑んでみたのだと推測しています。

この飼育員さんも番組に出ているタレントもだれも責めることはできませんが、あまりのもお粗末な内容にただ愕然としました。

そうなのです。

最初に未熟児の野生動物を人の手で人のように育ててしまうという、超えてはいけない境界線を越えてしまうともう何も見えてこなくなってしまうのです。

その先にはそのチンパンジーの子供が同種の群れに戻る可能性というのはなく、ひとりで生きなければいけないということを予測することすら不可能だったという真実だけがあります。

ここまでならひとつの失敗として学べるところですが、この先が重要なところです。

いっしょに芸をしているチンパンジーたちがひとつの群れとして楽しく暮らしていると感じてしまうのはなぜなのでしょうか?

この部分については全く共感できないことで、チンパンジーたちが芸としてものを投げ合ったりしているのを遊んでいると見えるのか?彼らが食べ物もしくは罰を回避するために行動していることをなぜ理解できないのか?

そうだとすると動物の認知能力をあまりにも低く見過ぎているということです。

動物に対してやさしさを表現しているように思えるこのケースは、動物をとても認知能力の低い動物とみなして自分よりかなり下位に置いているということです。

犬にオヤツを与えなくてもできることはさせることを大切にしているのは、犬を自分と対等だとみなしたいという気持ちからきています。

私も昔はオヤツをいっしょに座ってまつ犬たちの姿を疑似的な社会化として容認していました。

犬同士吠えあうよりはよほどましでないかと思っていましたが今は全くそのように思えません。

ティンバーゲンやローレンツが自然環境の中での動物の行動を観察してその行動こそ動物行動学だと教えてくれました。

テレビ番組を見たあとダンナくんが私の方に共感してくれたので私の炎もそれほど燃えませんでしたがすぐに記事にすることができず今日の日まで待ちました。

松沢哲郎先生の福岡での講演会が秋に開催されるらしく今からとても楽しみにしています。

先生、お待ちしていますので絶対にいらしてください!!

松沢先生とジェーングドール氏 ※京都大学霊長類学 ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院ホームページより引用





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