グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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Monthly Archives: 2月 2017

犬と犬をオンリードで会わせてはいけない理由

自分の犬にリードをつけているときに、他の犬と接触をさせますか?

同じ質問を私も受けたことがあります。ずい分前のことになりますがアメリカからドッグインストラクターが来日してセミナーが開催されたときに、このインストラクターが参加者に向けて質問したのです。このときの正確な質問は「自分の犬にリードをつけているときに、他の犬に接触をさせない人は手をあげてください。」でした。わたしは接触を好みませんのでリードをつけているときには他の犬には近づけませんので手をあげました。他におひとりが手をあげていたようです。ああやはりここでもこの程度か、と思いガッカリしたことを覚えています。

参加者は50名ほどいて大半が現役のトレーナーかインストラクター、もしくはインストラクター志望で勉強中のセミプロといってもいいようなメンバーでした。会場は犬同伴で参加できるセミナーだっため多くの方、おそらく私以外の方は全員が犬連れでセミナーに参加していました。私はこのようなセミナーには犬は同伴させません。理由は犬に必要のないストレスを与える必要はないこと、犬を同伴しなくてもセミナーの内容は理解できること、犬に対する価値観の異なる方との同空間にいることで犬に与えるストレスが回避できないことなどからです。たとえば、リードをつけている状態で他の犬を従えた参加者が自分に近づいてくることを回避することはできないからです。

冒頭の質問を受けたときこのインストラクターの方がどちらを薦めるのだろうと思い、少しドキドキしました。リードをつけてあわせられるように練習しなさいなどという指導が行われたら、大変落ち込んだと想像します。ところが実際にはそうではありませんでした。
アメリカのインストラクターは、犬にリードをつけている状態で他の犬と接触させるべきではないとはっきりと言ってくださったからです。本当にうれしく思いました。少なくともここに参加している50名にプロフェッショナルのうちの半分くらいは、今日得られた新しい情報に対して関心を示してくれるのではないかと思ったからです。



リードをつけた状態で犬同志を会わせることはお勧めしません。もう少し強くいうなら、絶対に止めてほしい飼い主さんの行動のひとつです。その理由は次のとおりです。

・リードをつけていることで犬は拘束されている、犬が逃げることのできない状態にあるということ。
具体的に説明しましょう。犬にとって他の犬との対面は緊張します。相手がよく知っている犬であっても、犬同志は視覚的に人が10メートル先で相手を確認できるのと違って、ときには1メートルくらいで臭いを確認しなければ対象がどの犬であるかを選別できないこともあります。犬の嗅覚からすればもっと遠方でも臭いの確認はとれるはずですが、犬はリードにつながれていて逃げることもできない、相手の犬もリードに近づいていてまっすぐに近づいてくるといった環境の中で犬の緊張感は高まり、認知力を落としてしまうからです。リードをつけている犬は動物としてはフェアではないと判断して、もっとわかりやすく接触をさせる必要があります。

・次に、犬はリードに拘束されているため、行動を通したコミュニケーションが不自然になります。
行動を通したコミュニケーションとは表情だけではありません。身体を横にむけたり、他の犬との距離をとったり、ゆっくりと近づいたりすることができず、落ち着かせの行動が出にくくなり、犬は不安定になり落ち着きをなくしてしまいます。
よくある勘違いですが、リードをつけて他の犬に近づけようとすると急いで近づいていこうとするのを、犬に会いたがっているとか、犬のことが好きだと思っている方がいます。犬が他の犬に急いで近づこうとする、リードを引っ張って他の犬に近づこうとするのは、リードをつけていて逃げることができない状態であるため、犬が緊張しているためです。
まず、犬は緊張から興奮を生み出し認知の力を落とします。また緊張してストレス値が上昇してくると攻撃もしくは逃走を選びます。逃走するという選択がない場合には、近づいていき自分の領域(=テリトリー)を主張する、もしくはいきなり飛びついたり威嚇してしまうこともあります。

リードをつけていなければ、すぐに距離をとってお互いの領域を守りながら相手を調べるという行為も可能なのですが、最近はリードを解放できる場所で対面を行った場合にも、この対面はうまくいかないことがあります。犬は生活自体が完全管理の拘束状態です。柵がある場所に閉じ込められる、部屋の中に閉じ込められる、リードをつけているというのは犬を拘束しているという状態なのです。精神的には人=飼い主に依存が高く、自分のパーソナルスペースさえ獲得できていない犬は、闘争&逃走モードは高く、このためリードから解放させた対面も和やかなものではありません。

週末に犬語セミナーを開催しました。囲いのある場所で小さな2頭の犬をリードを解放した状態で対面させたビデオを見て犬語を学びました。対面のビデオでは発声(吠えたり唸ったりする声)もでていない静かな行動でしたが、その中にはぎこちなくお互いの距離や関係が縮まらない多くの行動を見ることができました。現実にはこの対面のシーンを大変多くの方が「2頭は仲良し」と思って見られるのだろうなという感想もあります。

リードをつけたままで犬を対面させてはいけないはグッドボーイハートの最大のルールです。
飼い主さんたちは集まって話しをされたい時期もあったようで、私がそちらを見るとなぜか散らばっていくシーンが見られました。グッドボーイハートではルールだということがわかっていても、なぜそれが犬にとってストレスなのかということが分からないのでしょう。
これには大変時間がかかります。勉強する必要があり考える時間が必要だからです。セミナーに参加した犬のプロフェッショナルのうちの大半が理解できていないようなことですから、飼い主さんにすぐには理解できないこともわかります。要は、はなしをしたいという自分の立場に立って行動するのか、犬の立場に立って行動できるのかということです。どちらが犬の信頼を獲得できるでしょうか。

dav

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「うちの犬は大丈夫」は何が大丈夫なのか?子犬に応答しない成犬

犬にまつわる飼い主同士の会話や関係の中で、最近よく聞かれるようになった言葉でこれは危険だと思うことがあります。
「うちの犬は大丈夫」発言です。
「うちの犬は大丈夫」というときに、何をもって大丈夫といっているのかがよくわかりませんが、よく飼い主さんから訴えられることは、散歩中に「うちの犬は大丈夫です」と言ってリードをつけた状態で近づいてくる人がいるので困るということでした。

「うちの犬は大丈夫」にはいろいろな例があるため、一例をあげて紹介します。

飼い主さんは数ヶ月の子犬を飼っています。
その子犬に大型犬の成長した犬の飼い主が散歩中に近づいてくるとのことでした。
子犬は他の犬との関係やコミュニケーション作りに飢えています。犬をじっと見ていたり、犬の臭いを嗅ぎたいという欲求がありますから、近づける要素があれば一気に近づいてしまいます。そして成犬にとびつき行動をします。子犬のとびつき行動は成犬への要求のいりまじった興奮行動です。
その大丈夫といわれる成犬は、子犬のとびつきに無反応とのことでした。
そうすると子犬は腹部を見せてひっくりかえります。今度はあらたな要求行動をはじめます。
この腹部を見せる行動に対しても成犬は無反応とのことでした。

映像であればもっとわかりやすいのですが、イメージできたでしょうか。子犬が興奮しても要求しても、または強い服従行動を示しても成犬は無反応、つまり「子犬を相手にしない」ということです。
成犬の多くは子犬を相手にしたくありません。子犬は臭いがつよく近くにいって確かめるまでもなく子犬臭がプンプンとしています。子犬は成犬とみると自分の世話を要求するような興奮をします。長らく犬に接していないと興奮してとびついてきたりします。

多くの犬は子犬を相手にはしたくないのですが、子犬に威嚇行動をとって子犬を遠ざけようとします。もちろんこの威嚇行動は子犬にとっては打撃が大きいものです。子犬が同種の動物から威嚇されるということは、人でたとえるなら幼稚園生の子供が大人に近づいてきておばちゃんとでも言おうものならその幼稚園生をおばちゃんが突き倒したのと同じ意味を持ちます。幼稚園生は大人に対しておびえ、人に対して強い警戒心を持つようになるかもしれません。成犬が子犬に対して威嚇行動をするのがいけないということは多くの方にわかっていただけると思います。威嚇行動を成犬の教育と間違えられる場合があるのですが、行動をよくみるとそれは教育ではなく威嚇行動であることがわかります。この違いについても、ぜひ知っていただきたいと思います。

前述の子犬のとびつきや腹部をみせる行動に無反応の成犬の場合はどうでしょうか。成犬が子犬の相手をしようとしないのに遠ざける威嚇行動もしない無反応的は対応は、子犬にとって威嚇行動よりも衝撃的な反応です。子犬の存在を認めない、子犬がその成犬のなかでは「なかったことにしている」ということです。

この成犬の行動も人を例にあげて説明しましょう。幼稚園の子供がおばちゃんに近づいてきて「おばちゃん」といっていきなり抱きついたとします。大人は子供を見ることもない、話しかけることもない、何事もなかったかのように立ちすくんだままで、この幼稚園生の子供に対して無反応=無視をするという反応をします。子供はおばちゃんから少し離れて上目遣いでおばちゃんの顔を見上げて言葉を待ちます。それでも大人は無反応=無視をします。このような反応をされた幼稚園生が人と良い社会性を培う経験を得たとは思えません。幼稚園生は大人に対して警戒し、もしくは避けるようになるかもしれません。

子犬のとびつき行動や腹を見せる行動に対して無反応な成犬の与える影響はこのようなものなのです。子犬は犬としてのコミュニケーションや関係性に不安を抱えます。これは種の異なる人と上手くいかないことよりも、子犬にとってもっと強いストレスになります。子犬は自分の生活圏の中で飼い主により依存行動をするようになったり腹部を見せて転がったり、自分の居場所を過剰に守ったりする青年期の犬に突入していく危険性も控えています

では、子犬に適切に応答してくれる成犬の反応とはどのような状態なのかでしょうか。
子犬を引き受ける成犬は、まず子犬の臭いを嗅ぎます。場合によっては腹部の下に自分の鼻をいれることもあります。このとき子犬は後ろの片足をあげるバレリーナみたいな姿勢をとるでしょう。これが受動的服従行動といって、成犬にたいして服従を受け入れる行動です。臭いを嗅がれると子犬は興奮してとびつきそうになります。その際成犬は小さな唸り声でこれを制するか、首を交わしてとびつきを回避します。さらに興奮してとびつきそうになると威嚇もしますが、この威嚇は対立を示すものではなく、子犬に落ち着きを求めるものです。子犬は興奮を抑えるために若干からだを低くして耳を倒し、成犬の近くをウロウロとすることもあります。そのうちに次第に落ち着いてきます。この成犬と子犬の関係では、成犬のテリトリーの範囲内で子犬が行動をし、子犬の安全を成犬が守ることになります。成犬はつねに子犬を監視する状態になります。子犬がテリトリーから離れようとすると立ち上がってそれを抑えるような行動もとります。

現実的にいえば、このような対面や関係をつくる機会を子犬に与えることは難しいと思ってください。なぜなら、そうした性質をもつ成犬の数は非常に少ないからです。個体の性質としても限られている上に、成犬として成熟して成長する機会を与えられておらず、犬が自律した行動をとれるようになっていなければ、この子犬の世話や教育行動は不可能なのです。また、子犬が家庭でストレスを抱えている場合には犬に対面したときの興奮やおびえが非常に高くなり、成犬の抑制は効かない状態となり成犬には過度の負担をかけてしまいます。

成犬と子犬の対面について可能性のある機会としては、成犬と子犬の飼い主がきちんとした関係性を持っていること、成犬と子犬の飼い主があって関係性をつくっておくこと、そのゆるいグループ性を保ちながら、成犬のテリトリーの中に子犬を迎えることなどができるときです。もちろんこのときにはリードをつけずに対面させる必要もあります。リードをつけての犬と犬の対面はおすすめしませんが、これについてはまた後日のブログで説明します。

子犬に対面させても「うちの犬は大丈夫」といわれた反応ない成犬ですが、どうしてこのようになってしまったのかの経緯についてはよくわかりません。考えられることとしては、リードをつけて逃げられない状況下の中で多くの犬と接触をさせた影響によるものがあります。刺激をたくさん与えられそれがストレスになると、結果その刺激(対象)に対して三つの反応を示すようになることが考えられます。
そのうちの二つは過剰に反応する場合の攻撃行動です。過剰に吠える興奮して近づきとびつくという反応がこれにあたります。
過剰反応のうちのもうひとつは、逃走行動です。犬との距離が縮まる前に逃げる行動に移ります。
そして三つ目がこの無反応という状態です。コミュニケーションを獲得できない場合には、その対象をなかったことにするという反応になります。最初のふたつの行動は攻撃か逃走になるため、他の犬に対して社会的行動を見につけられなかったことがわかります。ですが、三つ目の無反応については一般的な飼い主さんであれば「おりこうさん」と評価をさせることでしょう。

無反応な行動を示したり飼い主にずっと注目して合図に反応し続けるという依存的な行動をとる犬が「お利口さん犬」と評価されるようになったのは、多くの人がこうした犬を求めた結果です。人が定めた評価基準ですから、これらの犬がお利口といわれることは間違ってはいないでしょう。ただ、こうした犬の反応が犬として社会的に適切な社会性の高い状態であるかどうかと問われるとこれは社会性の高い状態とはいえません。犬が機能的に備える真の社会性を否定するものでもあり、犬の本来もつ機能を低下させることにもつながっています。

犬を人として考えすぎると擬人化につながり間違いにも陥りやすいものです。今日紹介した社会的行動の例は、犬と人が社会的な動物であるということを踏まえたうえでの類似として捉えてください。こうして疑いをかけると難しいと思われる犬の行動は、実はとてもシンプルで簡単なものであるのです。

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柴犬を「いずれ」外飼いにしたいのですが…

今日の題目は、犬を屋外で飼育するいわゆる「外飼い」を希望されている飼い主さんからよくうける質問です。

柴犬をいずれは外飼いにしたいと思っているのだけど、いつ頃から外飼いにしたらいいのでしょうかという質問を受けたとします。40年前なら外飼いにする子犬は生まれたときから外飼いでした。外飼いしている犬が軒下で子犬を生み、その子犬たちが歩けるようになって、つまり生後1ヶ月半くらいで庭先をウロウロするようになります。そしてそのまま外飼いの親犬が面倒を見て大きくなり、新しい家庭でも外飼いということで、生涯屋内を知ることがなく飼われていたということです。

ところが、純血種の犬をペットショップで購入するようになってから、子犬は最初は室内で飼育するというように、犬の飼い方に変化がみられるようになってきたようです。ペットショップで購入したときには、子犬はしばらく外に出さないようにというアドバイスを受けられることでしょう。これには訳があるのですが、子犬は集団から離れると免疫力が落ちてしまいます。また子犬はひとりで暖をとることができず、何か暖かいものを近くに置く必要があります。屋外に急にひとりで置いてしまうと免疫力が下がって病気に感染するリスクが上がってしまいます。こうしたことを避けるために、子犬はしばらく室内に置いて成長を待つという方法が推進されるようになりました。

いずれは外飼いの犬も子犬の頃は室内飼いというようになったのは他にも理由があります。子犬に混合ワクチン接種をすることが一般的になったのも30年くらい前からだと思います。
3種混合とか、5種混合、最近では9種混合ワクチンというように入っている薬の数も増えていますが、混合ワクチン接種を受けることはもう一般的になっています。子犬のころに動物病院でワクチン接種を受けたときに、摂取後数週間は屋外に出さないようにという指導を受けるため、やはり子犬のころは室内飼育という風に変化してきたのでしょう。

混合ワクチンは合計で少なくとも2回、もしくは3回にわたって摂取します。ワクチン接種が終わって落ち着けるようになるのは子犬が生後4ヶ月を過ぎたくらいになってしまいます。ですがこの月齢まで人の生活環境の中に子犬を飼育してしまうと、子犬を外飼いにするのは大変なことになります。

現在はもっと問題が複雑になっています。子犬のころの室内飼育といっても、当初は玄関の土間などに子犬のスペースを設けて室内には上げずに飼育されているケースが多かったように思えますが、現在はリビングに子犬のスペースを設けてサークルなどを置き、その中に子犬をいれて育てときには抱っこしてあやすような赤ちゃん扱いをする誤った子犬育てが増えています。

こうした室内でのサークルの利用や子犬を抱っこしながら育てる飼育方法を取り入れていると、子犬は着実に分離不安の状態に近づいていきます。たとえば飼い主が離れると鼻をならす、飼い主にとびつき興奮する、飼い主が見ていないと排泄を失敗したり食糞をする、サークルに飛び上がって興奮するなど、不安行動の例はたくさんありますが、まとめていうなら飼い主に興奮したり落ち着きをなくすような行動が増えているときには危険信号だと受け取ってください。

ではどうすればいいのかについてお話します。

まず、外飼いを予定していてまだ子犬を迎えていない家庭、もしくは迎えたばかりというご家庭では、子犬の飼育環境をリビングから離れた位置に設けてください。人の通行のない裏側の土間やテラスの近くや縁側の近くでも構いません。この際にはサークルの中にクレートをおく一般的な飼育場所を設けていただいて構わないのですが、サークルの上と柵には境界線になるような板やダンボールなどをきちんと設置して無防備な空間ではなく、巣穴のような囲いができるように準備してください。
サークルの中には一応トイレトレーを置いておきますが、清潔な子犬はこの中では排泄をしません。排泄をさせる場所はサークルの前にもうひとつのスペース、もしくは土間のどこかに設置します。テラスが近い場合にはテラスや排泄場所を庭に出たときにさせるということでも大丈夫です。生後2ヶ月になる子犬であれば、一日のうちに数時間ずつ排泄のできる庭に出せば、室内に準備した寝床には排泄は行いません。

子犬を一日に何回も排泄に出すことのできない場合には…という話をしたいところですが、子犬を数時間以上ひとりで置いておくような環境に子犬を迎えることはおすすめできません。子犬はひとりぼっちでは安定して成長できません。1日を通して世話をする必要があるため、子犬を飼育できる環境そのものが限られているということになります。子犬といえば生後5~6ヶ月の乳歯の抜けるくらいまでです。人の年齢でいうと小学生くらいまでの年齢を子犬といっています。

働いているなどの理由でどうしてもお世話が難しい方には、子犬が5ヶ月になるくらいまではペットシッターのお世話になるなどの方法をとられることがベストです。ペットシッターも家族ではありません。飼い主さんが在宅する環境とは違いがありますが、この大切な時期に子犬を一日中部屋の中に留守番させるような環境で育てれば、子犬はコミュニケーション障害を持ちやすくなり性質も不安定になってしまいます。子犬を留守番させられるのは1日に3時間程度でしょうか。子犬が昼寝をしている間に買い物を済ませるといったものです。

子犬育ては人が在宅している環境の中ですすめられるとしたとしても、子犬を屋外に出す時期を遅くする必要はありません。ワクチン接種後に安定させたいときには、子犬を夜間や日中に休ませたいときには室内や土間に設置した子犬スペースに寝かせます。

子犬に排泄をさせたり子犬と遊んだりコミュニケーションをとるためには、戸建ての方は庭環境を使ってください。他の犬が入り込まないような庭であれば、子犬の病気の心配をするよりも子犬の精神的健康の配慮のために庭でいっしょに遊んだ方が子犬の免疫力は高まります。子犬の土に触れさせ草の臭いをかがせ、風のとおる外空間で空間認知力を培う必要があります。
その広い空間で人との距離感を学ぶこともできるのです。なにより、庭環境は子犬がいずれ生活する犬にとっての生活空間になります。その庭空間を把握し日常的な環境の変化を受け入れておかなければ少しの物音で吠えたり、鳥や蝶など動くものがあるたびに追うようになります。動くものがあると追うのは、遊び行動ではなく環境の中に新しく入ってくるものに対する好奇心が強く欲求を抑えきれないことで起きますが、こうした刺激も子犬の狭い環境把握の中で時間をかけて受け入れるようになってくると過剰反応する危険性も少なくなります。

ここまでは、外飼いをしようとするご家庭には「庭はあるもの」というつもりでお話ししてきました。外飼いをするつもりだけど庭がないとしたら、家の前に犬小屋だけがあるという環境になるでしょうか。最近では庭を小屋や駐車場に建て替えされているところも多く、家と犬小屋だけといった不自然な環境で犬を迎えられることもあります。犬小屋はあってもその周囲にスペースがなくすぐに道路という環境では、犬は環境の安定に不安を抱えやすく、環境学習をする機会もまったく失われてしまいます。残念ながら通行人に過剰に吠えるようになったり、来客への吠えもひどくなったりしてご近所から苦情が来ることになるかもしれません。このような環境も犬を飼う環境としては適切ではありませんので、犬を飼うことをあきらめるか、駐車場を別に確保して庭を復活させるかなにかの、環境改善をする必要があるでしょう。

とにかく、子犬をいつ外飼いにするかというのは、いずれではなく「今」であるということです。病気やワクチンのことでいったん室内というときには、室内に屋外飼育を想定した延長線上になるような空間をつくると考えた方がいいかもしれません。特に柴犬などの日本犬を最近は室内飼育される方が増えています。人の飼い方の変化によって柴犬の性質は愛玩化してしまい、人との距離を保てる忠実な犬ではなく、抱っこされる愛玩的犬に変わっていくのかもしれません。犬という動物がすごい速さで変わり始めています。人の求めるように変わる、それが人に飼われる犬という動物の運命であると思うと、人は犬に何を求めているのかを改めて考える必要性がありそうです。

dav


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犬のストレスを機械で測定する必要性はあるのか?

2017年2月18日付けの共同通信の記事に「犬のストレス状態が心拍の変動から分かる手法を開発したと、大阪府立大の島村俊介准教授(獣医学)のチームが18日、発表した。」という記事がありました。

要は機材を犬に装着して心拍の変動を記録し、その数値からストレスの状態を知る手がかりを掴んだというらしいのですが、心拍を記録する機材は人用に開発されており同チームがつかんだのは、犬の心拍の変動と自律神経(交感神経と副交感神経)の変動を因果つけることで、心拍数から自律神経の動きをしり、そのことからストレスの高さを把握しようというものらしいのです。

率直な感想を述べると、犬と人の距離もここまで離れてしまったのだろうかという気持ちでした犬の心拍とストレスの関係性を研究されている大学の先生方の研究成果は、犬の病気の早期発見などに役立てられることになるのかも知れません。ただ、犬のストレスを数値で知ることに偏ってしまうことは、犬と人の距離を遠ざけてしまうことになりそうです。

同じ屋根の下に暮らしている家族を例にとりましょう。家族である子供の状態を気にかけているのは親の役割でもあり、子供を愛する気持ちから自然に生まれる共感の世界です。その子供のストレス値を機材を装着して数値で測ろうとするでしょうか。心拍数を数値で測り自律神経のバランスを測定することが可能だとしても、子供に対してそれを行おうという親はいないのではないでしょうか。共に生活をしていれば、その表情は言動からストレスをどの程度子供が抱えているかを完全には理解できなくとも、知りたいと思うのが親の気持ちではないでしょうか。

犬は人とは異なる種の動物です。その表情や言動は人のものとは異なり、感情の世界も人が持っているものとは異なります。その種の違う動物のコミュニケーションを読み取るのは一見すると難しいもののように思われがちで、逆に擬似化による読み違いというのも生じてしまいます。

だからこそ、犬の行動をよく観察したり行動について学んだりしながら、少しでも犬の状態からその気持ちを知りたいと努力してたくさんの時間を使うことになります。難しいものではないのですが、時間がかかることは確かです。ただ、これらの犬を理解するために必要な時間は、犬とのコミュニケーションや生活そのものであるため、どれだけ時間を使っても惜しいと思うことはありません。あーでもない、こーでもないと考えたり悩んだりして、いろんな現象や行動がつながって「あ、そうだ、こうかもしれない。」と確信に近づいてきたときなどはドキドキします。

この観察を続けて対話を楽しみながら犬を理解する過程の中で、犬という動物に対する共感性も育ってきます。前よりも一歩ずつ犬のことを知ることになり、犬が本当にすばらしい動物であると確信せざるを得ませんし、同時に人が犬に与えている大変強い影響についても目をそらさずに見る必要も迫られます。

この多くの時間から得られるものが、犬に装着した数値と同等であるとは思いません。犬のストレスについて知りたければ、犬に真剣に向き合いながら共に生きましょう。これはきれいごとではなく、地味で目立たず他人の評価を得ることもありません。そうであっても、犬とのつながりを心で感じる唯一の方法であると信じています。

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参考までに、ネット掲載された共同通信の記事はこちらからご覧いただけます。

共同通信記事「犬のストレスわかります。」

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今年はじめてのウグイスの声と犬たちの春山

春風の心地よく吹く季節に今年はじめてのウグイスのなき声を聞きました。
毎年耳にするこの声を聞くとやっぱり春が来たのだなと感じます。
山で季節の移り変わりを体感するようになって、季節というのは自分が思っているよりも早いのだということを感じられるようになりました。2月といえばまだ積雪もするし寒さも厳しいです。それでも2月の節分をすぎることになると、春になったなと感じるようになりました。

山の動物たちも活発に活動をはじめているようで、山歩きの犬の動きも少し変わってきます。地面に鼻をつけている時間がながくなったり、歩いている道からちょっとだけ脇のほうに臭いにいったりして動物の動きを調べています。

都心で長らく生活している犬たちにとって野生動物は自律した特別の存在です。ほとんどの犬は野生動物の臭いに対してビクビクしています。落ち着きなくウロウロと歩くようになったり、臭いを嗅ぎ続けることも恐れを抱いている証拠です。こうした落ち着きのない行動は興奮行動のひとつですが、興奮のレベルとしては「不穏」といったところでしょうか。読んで字のごとく穏やかさを失っている状態で、警戒心が高まり危機感を感じ始めている状態です。

このような行動を遊び行動と間違ってしまうことがよくあります。山に入るとウロウロとしていたり臭いに執着しはじめたり走り出そうとしたりするときは不穏な状態、これを越すと走り回り行動が始まり、わたしが言葉にするときには「きれ走り」という専門用語でもありませんが、切れて走り回る状態につながっていきます。これらは大変危険な興奮行動であるため、不穏がそれ以上の興奮にならないように興奮のレベルを落としていく必要があります。

犬を抑制するための方法としてみなさんはどんな方法を使われるでしょうか。トレーニングの中でとても多く見受けられるのは号令や合図といった特定の行動をさせる落ち着かせです。確かにこれも落ち着かせの働きがあり、オスワリマテやフセマテ、もしくはマテといった合図によって動いている行動を一旦止めることができます。言い方をかえれば合図をかけなければ行動が止まらない場合や状態もあります。

この合図をかけて落ち着かせることは、興奮している犬によって影響を受ける社会的対象(人や犬)がある場合には、他者の迷惑をかけないためにも必要な処置です。犬の生活空間は刺激が多い環境であることも多いため、ぜひ身につけていただきたい落ち着かせの方法であると思います。

即効性のあるこの合図による落ち着かせには欠点もあります。それは、落ち着くという犬に必要な状態の変化を犬自身が引き出すことができず人に依存しがちになるということです。犬はいつも人と離れていることはないのだから、常に人が落ち着かせればいいではないかという価値観もあると思いますが、犬の自律性を育てて犬として生きる時間を大切にして欲しいという立場に立つと、犬が自律的に落ち着きを取り戻す練習は合図による落ち着かせよりもずっと大切な成長のための練習です。

山歩きの中では合図による落ち着かせを使いません。環境を整えながら犬が自律的に落ち着いてくるのを待つことを学びます。待つといってもただじっとしているわけではありません。合図を使う場合には行動をゼロにしてしまう依存的な方法になりますが、本来の落ち着かせは行動のパターンをかえながら気持ちを安定させてくるものです。
たとえば、犬の落ち着かせ行動には次のようなものがあります。あくび、耳をふる、体をかく、身震いする、ゆっくりあるく、口をなめる、舌を出すなどです。これらの行動は犬が自らを落ち着かせていくための行動ですが、こうした行動を経てやっと本来の落ち着きにむかっていきます。この落ち着かせ練習は山歩きの環境ならではの練習で、こうした時間や環境を持てるということはとても貴重なです。

ゆっくりと山を歩いたあとは設置したばかりの薪ストーブの上でパンを焼いていただきました。同時に薪割りも少しお手伝いしていただきました。薪割りは身体の芯がゆがんでいると刃の入りが上手くいかずなかなかうまく割れません。身体のバランスはリードを持っているときの犬の行動に影響しますので、これもまた学びのひとつです。生活のどんなことも犬と関連付けていけるのですが、それは犬のためにというよりそうであることが自分にとっても心地よいものであるため、むしろ心身を健康にしてくれる犬に対して感謝の気持ちが生まれます。

寒さもあと少しです。薪ストーブももう少し活躍してくれそうです。

dav



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犬の擬人化:動物の動画配信に思うこと

先日、知人からある動画を見せてもらいました。なんでも、大変人気のある動画で職場でも人気があるということでした。その動画は、動物たちの実写の動きに人の音声で会話をかぶせてある、よくあるパターンの動画でした。音声の内容がいろんな地域の方言を使われているということで、面白みがあって楽しめるといったことのようです。
その動画配信については個人の楽しみになるかどうかは価値観の違いがありますから、楽しいという方は趣味のひとつとされるでしょうし、関心がないとか不快だと思われる方は生活から遠ざけるということなのでしょう。

時代の流れの中でも、子供のころにテレビでみた名犬ラッシーやフランダースの犬、あらいぐまラスカル、ムーミンの中でてくる動物たちもそれぞれにある程度擬人化されたキャラクターでした。中には動物が人の言葉を話して会話するというファンタジーの世界のひとつとして、子供の世界を広げてくれて空想の中で遊ぶということを豊かにしてくれたもののひとつではありました。

動物をキャラクターとして表現することについては、製作の側にそれなりの目的をもって作られたもので人の成長や生活にとって確かに豊かさをもたらしてくれるものであれば価値を感じられます。アニメのキャラクターや、ぬいぐるみを来たご当地キャラが商業を高めるために貢献していることは間違いのない事実ですし、アニメといった2次元の空間やぬいぐるみという存在の中での動物のキャラクター化は人の楽しみ方のひとつとしてより良く活用していただきたいです。ただ、少し見方を変えればこれらも全て動物を擬人的に表現したものであるひとつの人の楽しみ方だと思います。

これとは別に動物を直接的に擬人化人して扱うという世界があります。この場合は、実際の動物の写真や画像に人の言葉を置き換えるように使われています。ネットが普及する前にもテレビ番組でこれらの手法はよく用いられ始めました。歴史的に見れば少しずつエスカレートしていますので、人の動物を使った楽しみ方が変化してきた人のつくった文化のひとつなのでしょう。たとえば、ソフトバンクホークスのお父さん犬のような扱いがキャラクターとして受け入れられるようになったのは時代の変化ではないでしょうか。50年前であればこうした扱いについては拒否反応が出ていたようなものが、この時代には「変わっている」「何かよくわからいないけど面白い」「ただかわいい」といった評価に代わり動物を面白おかしく取り扱う一定のルールはかなり不明確になってきています。

本当に怖いのはこれらの動物、特に身近な動物である犬に対する擬人化が実生活の中でも起きてしまうということです。家庭の中に生活する家庭犬や、知人が飼っている犬、街中ですれ違う犬に対して、テレビで扱われているような擬人的なキャラクターを当てはめようとする傾向が始まっています。犬の動画に音声やコメントがつけられていないような動画に説明が加えられたようなものの多くは、犬の行動を擬人的に見て説明をされています。その説明には「ではないか?」という疑問が付けられることもなく決定付けられています。赤ちゃんを助けようとした犬の動画とか、お風呂に入る前にお風呂の上で泳いでいる犬の動画などなど、きりがありません。

動画を配信した方に悪意はなく、ただ犬という動物を擬人化する見方しかできず、そこに愛情があるということを感じられることは確かです。そしてこれらの犬を擬人化した愛情にあふれる動画が、かわいい、犬が愛されているから幸せという風に笑顔で見ている方々もたくさんいることでしょう。その見方で、本当に犬は幸せになれるのでしょうか。幸せになっているのは、そうやって笑顔で見ている人側だけではないでしょうか。そこに、人が幸せだから人を幸せにしてくれる犬も幸せだという思い込みが存在していると思います。

動物の幸せがどこにあるのかというのはどこまでも議論する必要があります。まだ途中段階ではあると思います。ただどの時点でもずっと続いてきたことは、この犬という動物が本当に必要としていることは何かを考えるということです。その犬の必要性の中で、これは絶対だと思えるものがひとつあります。それはその犬にもっとも関わることになる飼い主という存在の犬に対する理解です。犬は人とは異なる種です。だから簡単に理解することはできません。一旦わかったと思ってもいや待てよ別の見方もできるかもしれないと何ども観察したり考えたりすることを積み重ねながら、少しずつその身近な犬について、犬という動物として、その犬という個体として理解を深めていくしかありません。動画ですれ違うだけの犬であっても「本当にそうなの?もっと別の見方もあるんじゃないかな。」とその犬について考えたり思ったりすることが、身近な犬への理解にもつながってきます。

冒頭に述べた動物の動画配信の音声は悪ふざけのコメントのようなものばかりでした。その動画を見て不快感を覚えてしまうほどです。ファンタジーは境界線を越えるとどこかで実生活に影響を及ぼします。目の前に生命のある生き物がいます。犬、猫、鳥、野生動物、虫たちなど、ファンタジーを繰り広げなくてもわたしたちをワクワクさせてくれる存在がたくさんいます。これらの命ある生き物と同じ空間で生きていることをお互いを知るという行為を通して楽しめる方が増えることを願っています。

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インディアナのウルフパーク

先日ある本を読んでいてウルフパークの設立者のエリック氏が他界されていたことを知りました。
ウルフパークの訪問は2回あり2回目は2007年だったので、あのあとほどなくして亡くなれたのですね。ウルフゴッドを口にしていた氏の旅立ちには多くの狼たちが迎えに来たことでしょう。懐かしくいろんなことを思い出しましたので少しご紹介します。

最初にウルフパークを訪れたのは、行き当たりバッタリのいきさつでした。そのときの自分は20代のまだ若々しく活動的な年齢でした。知人と共にセントラルパーク公園を観光で訪れたときのことです。セントラルパーク公園の大きさに圧倒されながら散策をしていると、ふたりの女性が写真を広げて談笑しているのが眼に入りました。写真のそばにあるコメントをみると「Donation」と書かれています。写真はオオカミのものだったことから思わず足を止めてしまい、その女性にわずかしか話せない言葉で「この写真はどこのもの?あなた方はここで何をしているのですか?」ということを尋ねたのだと思います。

オオカミの写真はウルフパークという施設の写真のものであること
そのウルフパークでは野生のオオカミの保護や研究を行っているということ
写真の販売費は施設の運営費に当てられるということ
ふたりの女性のうちのひとりがウルフパークのボランティアをしている
もうひとりの女性はボランティアをしている方の友人で、ホームメードのマフィンを作ってその販売費も施設へ寄付する

などといったことを聞きながら、ウルフパークという施設でボランティアの彼女が撮影したという写真をいろいろと見せてもらいました。犬に見せられたものであれば、その奥にあるオオカミの表情や行動に関心があるという人が多く、私もそのひとりでした。保護の目的が十分にわかったわけではありませんが、謎に包まれたオオカミの行動の一部でも知ることができる場としてとても魅力的に感じられました。

それよりももっと魅力的だったのは、ボランティアをしていた彼女が素敵な自律した女性で、とても惹かれるものがあったのです。それでなんとなく「わたしも言ってみたいな…」ということをつぶやいたのだと思います。その言葉に彼女は「私が連絡してあげる、今オオカミのパピーが生まれているから一緒に寝ることもできるのよ。」と教えてくれました。

限られた時間の旅行なのに知人の方は「行っておいでよ。私は大丈夫だよ。」と言ってくれたため、ニューヨークに住む知り合いに頼み込んで電話でインディアナまでのチケットの予約をお願いして、翌日はいっていた予定をキャンセルしてひとりで一泊のインディアナのウルフパークまで行くことになりました。言葉も対して話せないのに、今思えば無謀なことなのですがこれが20代なんでしょう。

アメリカといえばサンフランシスコやニューヨークといった華やかな場所しか知らなかった自分にとって、インディアナはとても強烈でした。そのインディアナの小さな空港まで迎えに来てくれたのがエリック氏でした。早速施設隣接の自宅へ連れていっていただき、そのときウルフパークにドイツから来ていたボランティアの学生を紹介してくれました。

オオカミたちが数頭入っている柵の中に、女性の常勤スタッフの方と一緒に入りました。彼女は「絶対に私の後ろから離れてはいけない」といいました。私は彼女の真後ろに二人羽織りくらいの距離にピッタリとくっついて、柵の中に入ります。外敵の侵入に警戒心を表情に示しながらも、声を出すことはなく、じっくりと私を観察する時間がとても長く感じられました。飼育されたオオカミとはいえ、さほど飼いならされているという印象もありません。施設は広大でしたが、そのときに入った柵の広さはあまり広いとは感じられませんでした。広さでいえば小学校の体育館といった程度のものでしょうか。

オオカミたちが観察を終えると、女性スタッフは少しずつ私の横位置にくるようになり、オオカミも彼女に近づいてきます。彼女はオオカミの背中に手をのせ、私にもさわってみるように促します。私は立ったままオオカミの背中に少し手をふれました。硬くて緊張感のある毛、動きもゆっくりで当たり前すぎますが、イヌという感触ではありません。

夜にはオオカミのパピーとドイツのボランティア学生たちと一緒に、シュラフに包まってバスのような車の中に寝せてもらいました。パピーといってももう眼もあいて活動し始めています。翌日に「始めてのミール」といってゴハンを食べていたくらいの年齢です。私の臭いが今までの環境にない新しいものだったため、それを調べるために、髪の毛をひっぱったり、シュラフをかんだり、結局一睡もできずその様子はまるでガリバーになったようでした。

エリックは私を自分が講義をしているという近くの大学まで連れて行ってくれました。そこに日本語が話せる女性がいるからと紹介してくれ、聞きたいことがあったらなんでも聞きなさいといってくれたのです。
「日本で動物行動学を勉強するためにはどこへ行ったら?」という質問をしたのを覚えています。エリックは「日本には動物行動学を勉強できる場はない。勉強したいならアメリカに来たらいいよ。」といってくれました。

エリック氏について最も印象的だったのは、ドイツのボランティア学生たちが食事時にドイツ語で話しているのを見て、「なぜ英語で話さない。サチコがわからないじゃないか。」といってくれたことです。英語でも早口になったり専門的になると分からないのですから、自分はほとんど気にしていなかったのですが、こうしたことはエリック氏が「コミュニケーション」をいかに大切にしているのかということに気づかされることでした。

ニューヨークに戻って再びセントラルパークの彼女と会い、体験を報告しお礼をいいました。
ウルフパークにいったからといってオオカミのことが何かわかったわけではありません。ただ、オオカミを愛する人々と少しだけ触れ合う機会を得て、自分がしたいことは難だろうと若さの中で考える時間になりました。

そのウルフパークを2回目に訪問したのは、ウルフパークツアーというものが開催される案内を受けとったからです。ウルフパークは商業化しており、たくさんの方がオオカミを見る、オオカミについて学ぶイベントが終始行われていて、スタッフも増えていました。20年前のウルフパークの思いはそこにはありませんでした。
柵はひろくなりオオカミたちの数も増えて、施設もきれいになっています。そしてオオカミたちは、少し飼いならされたようになっていました。たくさんのスタッフがオオカミにふれる必要があり、施設を継続していくためには必要な道だったのかもしれません。

自分にとって大切なのは「イヌのことをたくさん知りたい、もっと知りたい」ということです。そのため、施設を訪問したり活動したり本を読んだり仕事をしたりします。どんなときでも本質に触れるということを大切にしています。施設の大きさや規模やその人がどんなに偉いか有名なのかとかは全く関係ありません。動物にかかわる人、専門家、ボランティア、施設のスタッフ、飼い主さんを含め、どんな出会いからでも学べる出会いの本質にふれること。エリック氏との出会いはそうしたものでした。

2回目の訪問時にエリック氏はほとんど姿を見せませんでしたが、雨になりそうなときに空を見上げていると「ウルフゴッドがいるから大丈夫。」と一言いわれました。そうですね。ウルフゴッドは本当にいる、晴れていても雨が降ってもウルフゴッドがいるから大丈夫ですね。

セントラルパークで買ったウルフパークの写真
写真はセントラルパークで購入したもの

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2月の犬語セミナー開催のお知らせ

今月の犬語セミナー開催のお知らせです。

2017年2月26日(日)
時間 12時~14時
参加費 おひとり2500円
場所 グッドボーイハート七山校

参加資格 犬語セミナーはどなたでもご参加いただけます。犬は同伴できません。

少人数制でディスカッションしながら進めるセミナーです。
犬のことがよくわからない方でも、犬を飼っていない方でもご参加は歓迎いたします。

グッドボーイハートメールアドレス→ info@goodboyhaert.com
もしくは問い合わせフォームよりお申込ください。

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熊本県動物管理センターの支援活動について

熊本地震以来、熊本で被災した犬猫とその飼い主さんたちを支援するために発起した熊本被災ペット支援ネットワークの活動は今年の3月末をもって終了し会を解散いたしますのでお知らせいたします。
バザー用品の受付は2月末を持って終了させていただきます。
長きに渡りご支援をいただいた皆様、ありがとうございました。

今日は支援を続けてきた熊本県動物管理センターの状況についてお知らせすると共に、みなさんに考えていただきたいという主旨で現在私が知りえていることと個人の意見も述べさせていただきます。

熊本県内の被災ペットの状況はまだ継続しているようです。被災ペットといっても飼い主のいない犬猫ではなく、飼い主さんが住居の立替や転居により、一時的に預かりを委託していたり飼い主さんと同伴して一時施設に住んでいる犬猫のことです。熊本県が窓口となって対応に当たられています。

熊本被災ペット支援ネットワークの会は、当初被災ペットの支援活動として立ち上がったのですが、多くの活動は熊本県動物管理センターに収容が続く犬猫支援のための活動でした。みなさんからいただいた資金のほとんどが同施設で活動をしているボランティア団体フィリアに物資支援として提供いたしました。詳細は毎月はじめに同ネットワークの会のブログで公開している収支報告でご確認ください。

熊本県動物管理センターに収容されている犬猫のうち昨年10月までに収容されたものについては被災犬猫として扱われています。実際には、猫はほとんどが子猫のときの収容され、犬も飼い主が被災したことによりはぐれた犬というわけではありません。熊本県の10箇所にある保健所に持ち込まれたり捕獲された犬たちのうち、保健所で引き取りがなかった、新しい飼い主を見つけることができなった、収容スペースがない、譲渡対象とされなかった犬猫たちです。

昨年春から譲渡会の開催や動物管理センターからの直接譲渡を始める予定で計画を進められていたようです。その矢先の4月14日に熊本地震に見舞われ、通常業務として行っていた殺処分を停止し、収容数は増え大変な混乱に陥ったというわけです。熊本県動物管理センターには収容施設が整っておらず、屋外に犬舎を設けたり猫舎用のプレハブを立てたりすることにも大変時間がかかっていました。地震の被災によって人の生活のために資金や人手をとられ、動物の方にはなかなか目が向けられなかったことと、他の地域に比べて犬猫の再譲渡や処分を減らすためのシステムがなく活動も遅れていたと感じざるを得ません。

同施設で12月末までに収容した被災犬猫たちは、来月3月を持って被災動物としての扱いを終了し、通常の収容されている犬猫と同じ扱いになります。どういうことかというと、どの動物管理施設でも各行政(県の場合には県行政)の決めた基準を元に、新しい飼い主を見つける譲渡対象動物とされた犬猫には譲渡先を見つける活動をする、譲渡対象とみなされたなかった動物については殺処分ということになります。

殺処分という言葉を聞いただけで胸が痛くなる方もいらっしゃると思います。ですが、この現在の状況を理解しなければ、自分たちにできること必要とされること、改善されるべきことを考えることもできません。ですから、一方的にこうしたシステムを避難するだけでなく現実をきちんと見ていただきたいのです。

昨日の熊本日日新聞に熊本県動物管理センターで殺処分が再開されている内容の記事が掲載されました。数字については実際に記者の方が行政に確認された上でのことですから信憑性のあるものです。以下がその記事です。

<熊本日日新聞2017年2月11日朝刊掲載>
熊本県、犬の殺処分再開 昨年12月、「収容能力超える」 
 熊本県が熊本地震後に保護した犬について、病気などで譲渡が難しい個体に限り、見送っていた殺処分を昨年12月中旬に再開したことが10日、分かりました。保護・収容している県動物管理センター(熊本市東区)や県内10保健所の収容能力を超えたため、「やむを得ない」としています。
 県によると、10日までに犬計67匹を麻酔薬で安楽死。それでも同日現在、犬121匹、猫58匹を保護。通常の収容数である犬約10匹、猫約35匹を大きく上回っています。
 猫の殺処分は見送っているます、子猫の保護が増える春の繁殖期を前に「猫も殺処分を再開せざるを得ない状況になるかもしれない」としています。
 県は地震後、保護した犬や猫を「被災ペット」と位置付け、ボランティア団体などと連携しながら飼い主を探したり、新しい飼い主へ譲ったりしてきました。
 昨年末時点では、保護した犬861匹のうち710匹、猫1163匹のうち718匹を返還・譲渡。同年12月に策定した県政運営の基本方針「熊本復旧・復興4カ年戦略」でも「犬猫の殺処分ゼロを目指す」としていました。
一方、熊本市の市動物愛護センター(同市東区)は昨年4月から今年1月末までに、犬・猫計586匹を保護し、531匹を返還・譲渡。9日現在、計77匹を保護しています。これまで病気の治る見込みのない猫に限って16匹を安楽死させたといいます。=11日朝刊24面、太路秀紀、中尾有希記者
<ココまで>

まず、頭数についてですが、熊本地震が起きたことがきっかけで犬猫の収容頭数が増えているわけではありません。
平成27年度熊本県の犬の収容頭数は1518頭、うち殺処分数は267頭です。昨年は4月14日の地震直前まで殺処分を行っていましたのでその数が殺処分数に入っています。記事にもある被災後に変換譲渡されている数の中には、他の県や市、ボランティア団体や個人への譲渡が入っています。たくさんの支援の手を集めて数字だけでみても、非常に多くの犬猫が譲渡されていることがわかります。

実際、熊本県は一昨年の平成26年にはは昨年の倍近い数の合計で3830頭の犬猫を収容し975頭を新しい飼い主へ譲渡、2524頭を殺処分しています。地震の起きる前の年の方が収容数も非常に多かったという事実があります。

被災により支援の手が集まったにも関わらず、なぜ現在でも収容頭数が上がっていくのでしょうか。この数は被災した飼い主のいる犬猫ではなく、生活の中で飼えなくなり放棄される老犬、子犬、成犬たち、猫についてはほとんどが子猫です。熊本県という地域が、飼えない犬猫を減らすための活動が追いついていないという現実に眼を向ける必要があります。

処分された犬猫は、人が飼うことが難しい人に慣れない野犬、攻撃性を示す動物が主な対象となります。先日の山口千津子先生の動物福祉セミナーの講演の中にもありましたが、収容頭数を過剰に超えて動物を収容することは、動物にストレスを与え精神的な苦痛を与えながら生きながらえさせることになります。特に犬は多数で集まることが苦手な動物です。猫のようにケイジに入れられて大人しくしているということはありません。ケイジはさらにストレスになることもあります。収容時にストレスがかかると動物の行動状態は悪くなり性質にも影響を与えます。そうすると新しい飼い主を探すことも難しい、収容管理する職員にも負担がかかりストレスが上昇する。結果、犬猫が適切に新しい家庭に戻ることは難しくなるという悪循環を生み出します。

犬の場合には大半が成犬や老犬です。中には大人しくどうして捨てられたのだろうという犬もいます。理由はさだかではありませんが、子犬のときは可愛かったけど飽きた、引越すから、いうことを聞かない、吠えるなどの問題行動もそのひとつであることは間違いありません。

上記の熊本の新聞にあるとおり、今回の殺処分は麻酔による安楽死とのことです。最後は負担をかけさせたくないという動物の世話をされてこられた方々の熱意による行為です。麻酔による安楽死は人の手によって行われます。実際に業務としてどの地域でも行ってくださる獣医師の方々は、大変な精神的な負担を受けながら仕事を従事してくださっています。本当に大変な職務であると思います。

犬を飼う方は、犬を飼うということがとても難しいことであるということを事前に知った上で犬を迎えてください。
すごく犬のことを大切にしていた風だった飼い主さんでも、いきなり犬を手放してしまうことがあります。「自分は大丈夫」は危険な考えです。逆に本当に自分は犬が飼えるだろうかと悩むくらいでちょうどいいと思います。

私たちひとりひとりが考えるべきことは、飼い主は自分の犬猫を動物福祉の視点から見ても十分に満足がいくように犬猫に成長と発達の機会を与えて生きる機会を提供できているかということです。その上で、繁殖については本能を満たすことはできません。人が飼う動物はすべて生殖数の抑制をかける必要があります。不妊去勢手術はそれだけが目的ではありませんが、屋外に出て行く猫に関してはどこで子猫を生むかもわかりません。餌を与えるなら不妊手術は餌を与えた方の責任で行ってほしいものです。

犬の飼い主さんにお願いしたいことは、もし自分が死んでしまい犬が残されてしまっても、犬の行動は安定しており、吠えやかみつきや無駄ほえなどがなく、他の人や犬に吠えたりすることもない、精神的に健康な犬でだれもが飼いたいと思ってくれる犬なのかどうかを考えてほしいということです。

国内の犬猫の殺処分数は各行政や地域のみなさんの努力により、確実に減っています。犬猫の殺処分数は一昨年の10万匹からさらにおち昨年は9万匹まで減少しています。これに反してペット販売業者の申請によるペットの販売数は一年前より10万頭増えているという記事も先日新聞で公開されていました。この数字が信憑性のあるものならば、日本はいずれ純血種の国となり雑種犬は希少種になるのかもしれません。いずれにしても、犬猫の未来はひとりひとりが望んだとおりになるのでしょう。


追記2017年2月17日:熊本県動物管理センターでの被災動物扱いの期間が間違っていました。正しくは4月14日以降に2016年10月までに収容された動物が対象となります。訂正してお詫びいたします。

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熊本被災ペット支援ネットワーク
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雪の日の犬たちのお預かりクラス

今年2回目の積雪です。今回は長い。前回のが降り積もらなかったというならば、今日はしっかりと積もりました。最高ではないけれど、柵の上に10センチ以上、地面には20センチ程度の積雪ですから積雪といえるレベルの降り方です。そして、現時点でもまだ降り続けています。

今季2回あった積雪ですが、そのどちらもが犬たちの預かりクラスのために七山校にとどまることになりました。顔見知りの2頭の犬といっしょに山篭りしています。

昨日の朝は積もった雪がアイスバーンになってしまい、庭でもすべりそうなゴチゴチの地面になっていました。犬も滑りやすく動きもゆっくりになります。ふんわりした積雪とは違って足裏の冷たさも相当のものなのか、すぐに部屋にはいってきました。

今朝はふんわりで真っ白の雪のじゅうたんですが、その下には昨日凍ったアイスバーンが。
やはりゆっくりとすすみますが、さすがに少し興奮してきたようです。

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若い犬なら走り回るところですが、さすがに年をとると興奮度もそれほどではなく、緊張すると一旦大人しくなるというところですね。こういう時は、室内に入ったらとたんに興奮することがあります。落ち着かせはどんなときにも有効ですが、自分で自分を落ち着かせることのできる自律した犬は少なくなりました。かといって、放置しておけば興奮は増すばかりです。人の管理による環境制限や特定の合図などで落ち着かせるしかありません。

動物は生物ではありません。よく活動するようにできています。動きながら調べる、動きながら学習し経験し、動きながら活動することを生きるというのでしょう。人も動物ですが、他の動物とは少し動きが異なります。人は他の動物と比較すると圧倒的に大脳皮質を発達させた動物です。人のいう活動というのは、体を動かさずに大脳を動かすことを含みます。そういう意味では人も犬と同じようにいつも活動しています。

テレビを見ている、ゲームをしている、スマホをみている、ipodで音楽を聴いている、パソコンで文字を打っているなど、常に大脳を活動させています。

犬は体を活動させ環境を探索する動物であったはずですが、室内での生活では活動することを制限されています。人がテレビをみていても犬はテレビをみないしゲームもしません。妄想もしないし、音楽をかけていても人のように聴いているわけではありません。屋外で暮らす犬たちもつながれたままなので活動できず、犬という動物にストレスがたまっていくのも当然のことです。

家の中や限られた場所で犬を動かそうとすれば、柵の中でするスポーツや犬とおどるダンス、室内で芸やトリックを教えるといった事しかできません。こうした特定の動きは犬の本来の活動ではありませんが、一定のエネルギーを消耗してくれるので犬はすぐに疲れて寝てしまいます。私も以前はクラスの中でトリックの教え方などの練習をしていたこともあります。ですが今は積極的にはしません。

なぜかというと、犬が生きていく中でする権利のある本当に必要なことを取り上げておいて、人の都合にあわせて消耗させてしまうのはやはり不公平だと感じるからです。犬本来の活動をする学習の機会を犬に与えるなら、都心で生活する飼い主さんは多大な時間と労力を必要とすることでしょう。飼い主さんが自分の生活が忙しくどうしてもそれは無理だと感じられるなら、限られた人の作った空間の中で犬を人の号令によって活動させることで他の世界を教えないというのも仕方なしとして受け入れます。飼い主さんの価値観はそれぞれですし、必要な世話をする人には犬を飼う権利は与えられています。

この考えとは別に、犬と暮らし犬を愛する全ての人に対して、犬が本当に必要としている「犬の欲求」を知っていただきたいのです。その上で自分にできることを考え、できないことはできないとして切り捨てていただいて構いません。ただ犬が旅立ってしまってから「犬のことを知らなかった」という残念な気持ちを抱いてほしくないのです。どのような飼い主さんにも犬のことを知る権利があると思って伝えているのはそうした思いから発しています。

長い間自然から遠ざかっていた犬や知らない場所に連れてこられた犬は、最初はなかなか環境になじまず落ち着かず、自然に探索することもできません。人に行動や自分を守ることすら依存していますので、行動に自律性がなく不安定になるのは当然のことです。車椅子に乗っているクララにハイジが立って歩くことを促したようなものです。クララは車椅子から立ちあがろうとしても怖がり何ども車椅子に逃げ帰ってしまいます。クララの家庭教師は「かわいそうに」とクララをかばいますが、やがてクララは本当に自分の脚で立ちたいと思い、そしてその自律をハイジやその仲間と自然が見守り続けます。

自然にはじめて接した犬を見ると、まるで車椅子のクララをみているような思いです。そして、犬が汚れることを不快に思ったり、かわいそうにと思う飼い主の存在中では、犬の自律行動を促すことは無理なので、飼い主さんができる範囲内にとどめたほうがいいと思います。

犬の飼い主といっても、現代ではいろんな飼い方や暮らし方があるのだなと思います。
犬にとってどれが幸せかと考えるなら、自分だったらとまず考えてください。どれが正しくでどれが間違っているということもありません。ただいえるとすれば、その犬が中身から輝いているときにはドキドキするほど美しいものだということです。難しい、わからないという方は犬の瞳の輝きを見てください。人と同じく瞳の輝きは幸せの基準です。



dav

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