雨がしとしとと降っていますが、このくらいの雨なら犬も嫌がらずに散歩に行けそうです。
犬と一緒に散歩で歩いている人を見ると、持っているリードや姿勢、そして何よりも気になるのがバッグです。
なぜバッグが気になるのかというと、微妙なバッグを持って散歩している方の体のバランスがとても気になるからです。
微妙なバッグとは小さなサイズの買い物用のバッグ、手に持つタイプですね。
片手にバッグを持ったまま犬の散歩など、私はとてもできません。
犬の散歩は犬といっしょにいくパトロール行動です。
同時にいつ何時でも犬の安全を確保する必要があります。
犬の散歩のときにお願いしたいスタイルとは、
1、いつも両手が空いていること
2、体のバランスを保って歩けること
この二つのことを達成できるタイプのバッグを持っていただきたいのです。
リュックでもいいのですが、リュックタイプはすぐに排泄袋や水が取り出せないなど少し厄介です。
それで私はショルダーバッグを使います。
ベルトを少し短めにしたショルダーバッグなら行動を邪魔せず、またウエストバッグよりもたくさんのものが入ります。
ショルダーバッグを肩から下げたら、両手はリードを持つために開けておきます。
リードは両手で持つ場合もあるし、片手で持つ場合もあります。
いずれにしても、犬を必要に応じて自分の右側、左側へと移動させることがあるので
散歩のときには両手が空いている必要があります。
都会はもちろんのこと、田舎道でも、山道でも、同じです。
犬がさほど大きくなくても、小型犬でもチワワでも同じです。
ショルダーバッグをかけて姿勢よく犬と散歩している飼い主はめったに見かけません。
だからこそ人眼をひくものです。
犬との散歩は日々の暮らしのゆったりした時間でもあるとは思いますが、自転車に乗るときと同じようにやっぱりちゃんと歩いてほしいのです。
きっと自転車を販売されている方も、ほとんどの人がちゃんと自転車に乗れていないとみているのではないかと思います。
きちんとした犬との散歩は、犬も楽になるしお互いが楽しくなります。
犬の散歩のときのバッグはショルダーバッグで、ぜひお願いします。
Author Archives: miyatake
本気の犬のお散歩バッグなら絶対に●●タイプでお願いします!
動物の攻撃性は弱さとして表現される:犬の弱々しい行動は最大の攻撃の表現
動物の行動の読み違いが、そもそものコミュニケーションの行き違いにつながります。
犬という異なる種の動物に対しての理解が進まないのはほとんどがこの行動の読み違いによるものです。
ところがこの行動の読み違いは人と人の間でも起きているのです。
ラジオのテレフォン人生相談で50年近く相談を受けている心理学者の加藤諦三先生のお話を聞きながら、人と人の間でも起きる読み違いが犬にもあるなと思ったことを紹介します。
加藤諦三先生のお話の中で「わたしはみじめだと言うなど人に対する弱々しい態度は、人に対する最大の攻撃性の表現である」という内容がありました。
惨めだというのは、私はこんなに弱い、情けない、かわいそうだ、哀れだと思う感情です。
人は言葉で「わたしはみじめだ」と人に対して言うということは相手を最大に攻撃しているということだと加藤先生はおっしゃるのです。
相反するものは同属であるという原理がここにも通用します。
実は犬にも全く同じ原理があります。
犬の場合もこの行動のパターンで「犬の弱々しい行動は最大の攻撃の表現」なのです。
弱々しい犬の行動とはこのようなものです。
・身体を低くして近づいてくる
・鼠径部(太ももの内側)や腹部をみせるようにする
・口の口角を引き上げる
・尾を下にげてすり寄ってくる
・体をくねらせて近づいてくる
犬がこうした行動をとりながら人に近づいてくるとき、ほとんどの人が犬をなでてしまいます。
わたしはこんなに弱いのだ、という犬の行動を見て「あら~」といいながらなでてしまうのです。
ところが、同じ行動を犬が他の犬にしたときは犬はどうするでしょうか。
子犬が成犬にしたとき、成犬が成犬にしたとき、いろいろなパターンがありますが、基本的に弱々しい行動は無視もしくは拒否されています。
犬が弱々しい行動をとったことに対して相手の犬はそれに対して反応はしないというのが一般的です。
しかし、この弱々しい行動に対して無視し続ける犬に対して繰り返しこの行動を続ければ、犬によっては唸ったり威嚇してヨワヨワ犬を退けようとします。
この行動を見た飼い主は「うちの犬はおなかを見せて服従しているのに攻撃するなんでひどい」と言うでしょう。
犬がおなかを見せるのが服従行動であるというのは間違ってはいませんが完全に正解ではありません。
頭を下げる弱々しい行動も使いようによっては攻撃性の裏返しのこともあるのです。
人に対して犬がおなかを見せるときになでていたら甘噛みしたり噛みついてくるということはよくあることです。
犬が人に対しておなかを見せた時になでる人がいかに多いかというとでしょう。
犬がおなかを見せる⇒なでて欲しいのだと思う⇒犬をなでる⇒甘噛みされる(噛みつかれる)
これを繰り返してしまいことで、犬は人を弱々しい行動で思い通りにする、人のテリトリーに入り込むきっかけをつくる、そしてそもそもの目的であった攻撃をする
という行動のパターンを身に着けていきます。
飼い主は自分の犬を攻撃性の高い犬にしているだけのこのやり取りを子犬のころからずっと繰り返しているわけです。
繰り返しますが、加藤先生の言われるとおり、弱々しい行動は最大の攻撃性の表現なのです。
ではおなかを見せる犬に対してどのように対応すればよいのでしょうか?
犬と犬のコミュニケーションに学べはとても簡単な退け方になります。
好ましくないコミュニケーションは受け取らない、これがお互いにとってベストの選択です。
「わたしはこんなに惨めなんです」と他人に言われても聞き流す
「わたしはこんなに弱いのですとおなかをみせる犬」に対しても聞き流す
そして逆に、おなかを見せるくらいならもっとやるべきことがあるだということを犬に教えてあげてください。
それが犬が幸せになるために飼い主ができる最善のことなのです。
週末もレッキングクラスを開催:歩きながら考えると考えがまとまる説
天気予報の雨マークが曇りマークに変わり、週末もトレッキングクラスを開催できました。
グループクラスではなくプライベートでご利用いただけるトレッキングクラスです。
山歩きしながらいろいろな質問を受けつつ、緩やかに進みます。
物事を考えるときに、ときどきこうして歩きながら考えると頭がすっきりすることがあります。
散歩しながら考えると今までになかった考えが生まれてくるというか、よく学者のような頭のよさそうな方が考えているときに部屋の中をうろうろと歩いているもの意味のあることのなのでしょう。
実際、作家のソローも歩くと脳が動き始めるということを本の中で紹介されているそうです。ソローの「森の生活」は興奮して読んだ記憶のある本ですが手元にないのでみなさんで確認してみてください。
プライベートトレッキングクラスで歩きながら飼い主さんとお話するというのは、そんな不思議な会話でもあるのです。
トレッキングクラスはみなさんが思っている以上にスローペースです。
「自分のペースで歩いて下さい。」というのがお約束です。
全体のペースを会わせるためには適当に立ち止まり時間を作ればいいことなので自然にみながいっしょに歩いていけます。
移動のときには自分の速度をキープすることで自然のリズムが生まれて心身がリラックスされる感じがするのです。理屈ではなく体感としてそう感じます。
犬の方は興奮しそうですが、リラックスして歩いている犬はすごくゆっくりと歩いています。
今日トレッキングクラスに参加してくれた犬ちゃんも、思い起こせば「相当リードを引っ張っていた」ような気がします。
ところが今日の山歩きでは飼い主さんが持っているリードはほとんど補助の役割、リードはたるみを持ったまますごくゆっくりと歩いていきます。
犬のメンタルが解放されていく感じがするのです。
週末はキャンプに出かけるのが好きだということでアクティブな小型犬と暮らしている飼い主さん。
山で犬が過ごす時間を作ることが人と犬を解放させてくれるということは十分に承知の上ですが、それでも時間はかかります。
その時間を楽しめる人だけが、犬との暮らしを本当に楽しめるようになるのかもしれません。
まだまだ若い犬ちゃん、これからの成長も楽しみですね。
犬ができるまで練習するのが「犬のしつけ」。マテならレベル1までは達成すること!
何事も宿題とか練習というのは続かないものです。
「どうやったらできるようになるのですか?」の質問のすべてに対するシンプルな答えは、「犬ができるようになるまですること」なのです。
「できるようになるまで(練習)すること」と「できなかったら叱ること」は全く別のことだということをまず理解していただく必要があります。
「できなかったら叱る」ことを繰り返していたら、いつかできるようになるだろうかと考えてみてください。
絶対にできるようにはなりません。
だとしたら「できるようになるまでする」⇒「できるようになるまで練習する」しかないのです。
できるようになるまでするにはどのようにすればよいのですか?
できることを繰り返し練習して、少しずつステップを上げていくだけです。
結局のところ、犬のしつけは繰り返し練習でしかないのです。
練習を言えば、みなさんが何かで体験した練習と同じことです。
ピアノの練習、歌の練習、テニスの練習、料理の練習。
特にスポーツなどの体を使う練習のときには、間違ったことからはなかなか学びません。
間違えたフォームを身に着けるとそこから脱することは難しいのです。
一度身に着けたものはなかなか変えられない、姿勢や体の動かし方など特にそうですね。
犬も一度身に付いた悪癖を取り去るのには根気が必要です。
でもその悪癖すら、叱るではなく、できるようにして固定させるそして認める(ほめる)、これがしつけの練習です。
たとえば、マテの練習を室内でするなら、できるようにさせることを繰り返して
「飼い主がマテといってリビングを出てトイレに行って戻ってくるまで同じ場所にいる」
これがマテのレベル1です。
レベル1まではどの飼い主と犬のペアでもできるようになりますし、できないのは練習不足なだけです。
そしてレベル1を達成しなければ、マテはできているとは言えません。
もちろんおやつなし、おもちゃなしです。
早ければ生後4ケ月でもできますし、1歳までにはできるようになっていただきたいですね。
犬ができないのは犬ができないのではなく飼い主ができていないのですが、直接そうわれるのも凹むでしょう。
でも気づかなければできない犬にイライラしてしまい、怒りだけが生まれてしまいます。
できないのは犬ではなく自分であるということさえはっきりすれば、あとは自分しかやる人間はいません。
生活管理トレーニングが終了したらすぐにマテの練習を重ねて下さい。
「できるできるの繰り返し」
できるようにさせる、それが犬のしつけです。
梅雨入りしてもまだまだ気持ちがいい!平日のトレキングクラス開催しました。
梅雨だというのにうぐいすの声が活発な七山の朝です。
平日にしか都合のつかない方数名とトレッキングクラスを開催しました。
3頭そろえば立派なグループです。
人もいるから総勢6ですね。
隊列を組んで歩くにはちょうど良いサイズです。
この日は少し気温が高く山の一部には苦手な蚊もいましたが、風はまだ心地よく吹き抜けていき気持ちを一新してくれました。
それぞれに馴染みのない犬たちも、いつも不思議なのだけどトレッキングのときにはとても落ち着いていて、前進を拒むこともなくリードの引っ張りもなく、飼い主との対立もありません。
人と山を歩くという行動が犬にとってどんなに原始的なものであるのか、
そのことが犬の脳を良い意味で活性化させてくれることを大いに期待しています。
都会環境やテンションの高い人との生活で疲れ切った脳と神経を、山歩きでゆっくりと休めていくと犬は次第に穏やかになる気がするのです。
目的を持ってクラスに参加することも大切なことですが、行動すると決まったらあとは楽しんでやることです。
楽しんでやるためには積極的になるしかありません。
何に積極的になるのか?
もちろん、犬とのより良い暮らしに対して「積極的に取り組む」ことです。
コロナ時代で「売れているアレ」が我が家にもやっと設置できた。
コロナ時代で家電がとても売れているというニュースをみました。
家にいる時間がすごく多くなったことで、いつも使っているものをより良いものにしたいという欲求が高まったのですね。
同じように、家のリフォームやお庭周りの整備用具もたくさん売れているようです。
だからというわけではないのですが、我が家でも念願の設備がやっと装着できました。
DIYというわけにはいかず業者の方に依頼してほぼ一日で取り付けが完了しました。
福岡の住まいの庭側の屋根です。
お庭で犬を遊ばせているときも、雨のときにも屋根のない入口ではいろいろと大変でした。
ちょっとした屋根の空間ができたことで戸口周辺が守られいているような空気が出てきました。
ほんの少しのことなのに、あるとないでは大違いですね。
庭は犬が過ごしやすいように、野菜を植えるつもりだったのですが収穫はできず野草になっていきました。
それでも少しでも草が生えていくようにとこれからもふわふわの地面を目指して環境改革を進めていきます。
博多区の小さな庭ですが、こんな都会に土のある場所は相当貴重だと思っています。
ひなたぼっこできる場所、日陰で休める場所、草を食べる場所、穴掘りができる場所、そんな小さな庭で犬もリラックスできるなら私もリラックスできます。
いつも思うのですが、犬にとって必要な場所や時間はわたしたち人にとって本来は必要な時間と場所であると思うのです。
緑をみながら歩くこと、新鮮な空気をかぐこと、花を見ること、風を感じること。
犬のためといいながら恩恵を受けているのはいつも人の方なのです。
庭に屋根をつけたので今度はテラスを作りたいと思います。
犬のためは自分のため、自分のためは犬のためです。
もう少しつづきそうなこの引きこもり生活ですが、悪いことばかりでもなかったと思える時間にできるかどうかは自分次第ですね。
犬の分離不安を絶対に解決するために必要なこととは。
社会現象かもしれないなと思うほどに「お留守番できない犬」たちのご相談が続いています。
ネットでも検索すれば出てくるような有名なワードになってしまった「分離不安」という状態になっている犬たちが増えているということです。
犬の分離不安の代名詞ともいえる行動が「留守番ができない」です。
飼い主の留守番中に、吠える、排泄する、破壊行動をする、部屋を走り回る、遠吠えする、排泄にまみれる…などなど。
最近は留守番カメラもあり犬の留守中の様子が鮮明に記録されるようになりました。
そのことで今まで知りえなかった「留守番中の犬の様子」を見て、びっくりしている飼い主も増えているようです。
留守中に吠えでご近所に迷惑をかけるとか、留守中に部屋が排泄で汚されるといった問題がきっかけで犬の分離不安行動を解決したいというご相談を受けることがあります。
問題と向き合うきっかけはどんなにささいなことでも構いません。
なぜなら解決したいと思っているのは飼い主よりもむしろ犬の方だからです。
犬の行動の傾向の中に分離不安傾向がたくさん見られるなら、犬はかなり強いストレス状態にあるのです。
生活の基盤である食べることや寝ることすら楽しんでいない状態になっていることもよくあることです。
分離不安状態にある犬は飼い主にまとわりつきますので、コミュニケーションは十分に取れていると思うならそれは勘違いです。
分離不安状態にある犬は飼い主にコミュニケーションを求めているのではなく、飼い主に執着している状態だからです。
この分離不安ですが、大変強いレベルまで上がっていくと自己破壊行動となることもあり大変危険な状態です。
少しでも何かおかしいと感じられることがあったらすぐに解決のために動き出してほしいのです。
どんなに大変な分離不安状態でも改善できると私は信じていますが、いくつかの大切なお約束があります。
解決にたどり着いた犬と飼い主の傾向があるからです。
まず、飼い主の犬に対する責任という愛する気持ちが必要であること。
問題に取り組んでいるのは犬ではなく飼い主の方なので、困難が生じても乗り越える覚悟と決意があること。
そしてもしご家族でこの問題に取り組むなら、家族間での堅いチームワークが必要です。
この3つがそろっているなら、あとは専門家を信頼していっしょのチームとして犬の安心をつかみ取ってください。
それにかかる時間はすぐの場合もあるし、少し長くなることもあります。
結果良ければすべて良しということでしょうが、犬の成長はもっと素晴らしいものがあります。
結果よりも経過で起きている自分と犬の関わりの小さな変化を喜べる人こそ、犬との暮らしをより豊かに変えていける人です。
犬は人の10分の一の長さを生きています。
犬は幸せになるために生まれて来たはずです。
犬の個々の性格は子犬の時期ほどわかりやすい
今週は柴犬の子犬2頭がお預かりクラスを利用して七山に来てくれました。
生後4ケ月と生後5ケ月。
人の年齢に例えるなら小学校の4年生と6年生くらいでしょうか。
数日のお預かりの時間を利用して、少しずつ距離を近づけるようにしながら接触をはかりました。
短いお預かりだったので無理はさせたくありませんが、同年齢の子犬をいっしょにお預かりする機会は貴重な時間なのでつい欲が出てしまいます。
一頭の犬くんは初めてのお預かりだったこともあり、自然環境の中で自分の中にはいってくるいろんな情報の処理や湧き上がってくる好奇心で体の動きも混乱気味で落ち着くのにはかなり時間がかかりました。
片方の犬くんはもうなんども七山を訪れていて環境の把握も早く余裕があります。
彼の視線は新米で同世代の犬くんの方にくぎ付けとなってました。
なんとか接触をさせつつ興奮を抑えつつ、動きもはやく興奮も高いので途中介入も楽ではありません。
しかしこうして同じ環境の中で子犬を見ていて思うのは、同じ犬種の月齢もさほど変わらない見た目はよくにている2頭の犬の表情や行動はかなり違いがあるということです。
犬の性格形成には大きく二つの要素が影響をしています。
いわゆる「氏か育ちか」というもので、性格形成に影響を与えているのは「遺伝的要因」と「環境的要因」のふたつに分けられます。
一般的に言われるように純血種の場合には「犬種」としての独特の行動の特徴があります。
これは遺伝的要因と言われるものですが、遺伝的要因は犬種だけではありません。
やはり子犬の親やその親といった代々受け継がれてきた行動の特徴というのがあり、それが子犬の個性となっているのです。
特に子犬のころは環境要因(飼育の環境や飼い主の接し方や経験など)の影響がまだ少ないため、遺伝的な要素がある程度わかりやすい時期です。
2頭の柴犬の子犬たちの行動や表情、動きのパターンなどを観察していると、思い白い発見がたくさんあります。
同じ柴犬という純血種として出やすい行動のパターン、親から受け継いだであろう個々の性格の質など似ているところ、似ていないところを比較しながら見ることでより子犬の個性が鮮明になってくるのです。
生後2ケ月から5ケ月齢くらいのころが一番個体としての性質(性格)がわかりやすいのです。
犬の個体の性質を個性と呼ぶなら、犬の個性がわかればわかるほど、その犬が必要としている社会経験などの環境の準備もわかってきます。
お預かりクラスはあっという間に終わってしまいましたが、犬の近くで、少し離れて、すごく離れて観察し、接し方を変えて観察し、考えてを繰り返していたことで自分は満足するとともにかなり消耗しました。
若い頃に比べると経験が増えて知識もたくさんあり惑わされるようなこともなくなってきたはずなのに、情報処理能力が衰えてきたということでしょうか。
子犬たちの成長が楽しみです。
手作りの犬小屋を見て思う、犬との暮らしを楽しむということ。
梅雨の晴れ間なのでしょうが、長い晴れ間が続いていて犬たちも心地よい時間を過ごせているようです。
最近、訪問レッスンに伺ったご家庭で手作りの犬小屋や犬の休憩小屋を見せていただきました。
マンションのテラスに設置されたヒノキ素材のすのこを器用に組み合わせた小屋を犬ちゃんは気に入っているらしく、レッスンの途中でも小屋に入って休む姿を見ることできました。
別のご家庭では、手作りの犬小屋が仮設置状態で犬ちゃんにとってはお試し住居といった様子を拝見できました。
こちらの小屋の方は塗りたてのペンキの匂いに反応して若干の警戒を示している犬ちゃんに「イメージと違う」と試行錯誤する飼い主さんの姿もありました。
こうして居心地の良い犬の居場所を自分の住まいの中に提供しようと工夫したり時間を割いたりすることこそ、まさに犬と暮らす楽しみのひとつではないかと思うのです。
相手の立場にたって、どうやったら犬が心地よい時間を持てるのだろうと考えること。
犬にとって必要な空間とはどのようなものなのだろうかと考えること。
そうすることが、結局は「犬ってどんな動物なんだろう」と考えるきっかけを与えてくれます。
この空間づくりによる犬の安定は、おやつやおもちゃを与えて犬を喜ばせることとは根本的な違いあります。
心地よい時間は犬だけのものであり、飼い主がその場所で犬が得られる満足を奪うことはできません。
そしてその犬の心地の良さを犬を遠くからみながら「気持ちが良さそうだな」と感じてうれしくなる程度です。
そういえば、私も中学生のときに柴犬が家にやってきたときに、スヌーピーのあの赤い屋根の小屋の中に入ることを願って、父の知人に頼んで手作りの小屋を作ってもらいました。
その赤い屋根の小屋に犬が寝る姿を見ることはなかったので、犬小屋としては今一つだったのでしょう。
犬の訓練士となった今では当時の私に教えてあげたいことがたくさんあります。
犬には犬として過ごす時間が必要なのです。
風のとおる場所、ひとりになれるスペース、太陽にあたりながらの日向ぼっこ。
大切な時間をみなさんのご家庭でどのように過ごすのか考えることを楽しんで下さい。

ヒノキの小屋でくつろぐ犬ちゃん
競争馬を蹴ったと非難する前にもっと深読みしてほしいこと
競馬の競争馬を見るのが好きになったという方からテレビ中継された競争馬の話を聞きました。
ところが馬の話は最近あったらしい事件のことになりました。
競馬のテレビ中継でパドックに入るのを嫌がる競争馬を引いている人が馬を叩いたり蹴ったりするシーンが放送されたらしいのです。
競馬は賭け事だけでなく馬が好きな人が見るスポーツでもあるので、その光景を見て嫌悪感を覚えるのは当然のことでしょう。
しかしこの話を聞いて私はもう少し別の考えもあってはいいのではないかと思いました。
私ならこうも考えます。
競馬馬、中央競馬ではサラブレッド、地方競馬では昔は農耕用として使っていたが今は使われなくなって行き場がなくなったような地方のばん馬なども使われています。
どちらも馬ですが、馬は存在する動物の中でも野生では存在せず家畜としてしか生きていないと言われる動物です。
野生馬を食い尽くしたのは私たち人間であって、それほど人にとって馬の活用価値は高かったのでしょう。
移動から農耕から軍事にいたるまで、万能だった馬も活躍の場を失って、私たちが一番目にするのが競走馬となりました。
人が利用する動物のことを家畜というのですが、馬は家畜なのです。
家畜という言葉の響きはあまりよくないと感じられるでしょうが、これが事実です。
家畜は人が様々な形で利用するものであって、競走馬は人に馴れ人のいうことを聞いて競馬をする馬のことを言います。
競走馬として優れていれば、繁殖馬として生涯を豊に過ごすことが約束されます。
でももし競走馬として価値がなかったとなれば、その馬は馬肉になる可能性も十分にあるのです。
競走馬として走ることを拒否してしまえばこの先はないと、もし私がその馬を育てた職員だったら蹴ってでも馬を走らせたいと思うかもしれません。
そうでなければ生きる場がのない馬を「なんとしても走れ」と思う気持ちが虐待なのでしょうか。
実際のこの事件の当事者の方がどのような思いでいたのかはわかりません。
しかし、家畜という動物の世界は華やかな世界だけではないという、裏側があるということを知ることにも価値があると思います。
先日おすすめの本として「快楽としての動物保護」という本を紹介しました。
動物を保護したり愛護する歴史や背景は実に複雑なもので、人が利用する動物の販売から利用にいたる背景もまた単純ではありません。
馬と同じように犬もまた、純血種の繁殖から販売、また雑種犬の保護から飼育にかけても、うまくいっていない問題はあまり表面に出ることはありません。
しかも犬は馬よりもずっと小さな動物にされてしまい、どんなにうまくいっていなくても室内になんとかかくし通して飼うこともできるサイズになってしまいました。
私の犬のことを理解したいという気持ちが、他の動物、なかでも人が強くかかわる動物への関心に向いていきます。
もちろん今目の前にわが犬がいる方は、まずは足元の犬の立場にたって考えることを優先させてください。
かわいそうという気持ちを捨てて、犬を尊重するという姿勢を飼い主が持つことです。