グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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<犬のこと>人の「犬が可哀そう…」が本当に「可哀そうな犬」にしてしまう

犬に対する人の「犬が可哀そう…」は本当にかわいそうなのか?

犬との接し方や、イヌへのトレーニングを説明する際に、たまに飼い主さんが口にする言葉があります。

「犬がかわいそう」という言葉です。

みなさんはどんな時に「犬がかわいそう」と思うのでしょうか。

こんなことがありました。

柴犬を室内で飼っている方と話していたときのことです。

「最近は柴犬を室内で飼う方が増えていますね。

でも庭でつなぎ飼いの柴犬もまだ結構いますよ。」と私が話すと

「外で飼うなんて…犬が可哀そう。」と言われたのです。

外で犬を飼うことが、犬をつないで飼うことが、可哀そうと思ってしまうのはなぜでしょうか。

他にも犬を必要以上に抱っこしないでくださいというと

「犬を抱っこして可愛がらないなんて犬が可哀そう…」。

上の二つの例にあげた内容は私はどちらも「犬が可哀そう」とは思いません。

ここには私とその方との犬に対する価値観の違いが出ているのだと思います。

ではここでの「犬が可哀そう」の意図はどこからきているのでしょうか。

その「犬が可哀そう」は理論的に説明できる動物の福祉に反する行為なのか?

「犬が可哀そう」を議論するときに感情論を外してくれという方が酷であるということはわかっています。

だとしたら犬が可哀そうと思う根拠を自分なりに整理してみるということをお勧めします。

例えば犬にくつをはかせることはどうでしょうか?

犬の脚が汚れたら可哀そう、だから犬に靴を履かせるのか。

犬がはだしであるけないなんてかわいそう、だから犬には靴を履かさないのか。

一部の方にとってはこんな質問は愚問だと思われるかもしれませんが、

現在の価値観の多様化の中ではこんなことすらもお互いの価値観を明確にする必要がでてきました。

この議論の際に、絶対に外して欲しくないことが「動物の福祉」という観点です。

「動物の福祉」とは「動物の愛護」のことです。

人間の福祉と同じように、動物もまた彼らが生きる中で不当な扱いを受けることを避けなければなりません。

動物の福祉はみなさんが美味しいと口にしているステーキになる牛肉や唐揚げになる鶏にすら求められるものです。

生きている間は、動物として生きる権利を動物たちももっている、それが「動物の福祉です」

この動物の福祉を論じるにあたっては「動物として」というキーワードに注目して考えていきます。

本当に「犬が可哀そう」なことを真剣に考えよう

動物として…。なんと深いことばでしょうか。

つまり、犬として生きる権利を守ることが犬の福祉なのです。

犬として生きるとは「犬の習性を尊重する」ということなのです。

では犬の習性とは何か、犬の飼い主はどのくらいこのことを理解しているでしょうか。

犬は習性として靴を履いて歩いたりはしません。

犬の脚ははだしで歩くことでその機能性が発達且つ保持されます。

ただし、犬の脚指はコンクリートやフローリングの上では歩くことが不快となります。

犬の脚指は地面に食い込むようになっているからです。

これが犬の歩くという習性です。

この犬の習性を尊重しない接し方や飼い方こそ、本当の「犬が可哀そう」な状態です。

では犬をつなぎ飼いするのはどうなのか?

犬という動物をつないで飼うというのは決して犬を完全に尊重した飼い方ではありません。

ただ同時に犬を室内に閉じ込めておくことはどうなのか、これもまた犬を完全に尊重した飼い方ではないのです。

ではどうすれば犬が可哀そうでないのか。

今この国内の環境の中で、犬を本来の習性を維持させながら人との暮らしを実現するというのは無理難題です。

できることといえば、犬を適切に環境を管理しつつ犬の習性を実現できる時間を50%から70%へと引き上げていくただそれだけしかできないのです。

日々の生活の中で犬がどれほど犬として尊重される時間を過ごすことができるのか、それを図っていくしかありません。

犬に対してしていることのひとつひとつ、それが本当に犬にとって可哀そうなことなのか、それともただの感情論なのか飼い主であれば一度は自分に問うて欲しいものです。

地面のにおいつけをするきいろちゃん