グッドボーイハートを通して出会った素敵な犬たちもグッドボーイハートの時間が重なると共に高齢になっていきました。
パートナー犬のオポとの別れの前にも後にも、出会った大好きな犬たちとのお別れが続いていきます。
この節分のころにもまたひとりの仲間が旅立ったというお知らせをうけました。
たくさんの犬との出会いはたくさんの喜びと楽しみを与えてくれました。
同時にたくさんの犬との別れを経験することにもなりました。
たくさんの悲しい別れは、たくさんの喜びをもらったからだと充分に納得しています。
本当に辛い別れは、その犬のことを心から愛していたからなのだと思います。
でもその辛い別れが苦しみや悲しみや憎しみに代わることを犬たちは望んではいません。
そうならないために、出会えてよかったありがとうの言葉を繰り返すようにします。
そして、いつか彼らがまっているその場所へ私もちゃんとたどり着くことができるように今を生きているのだと戒めています。
こうした仕事をしているからかひとつひとつの犬の命ととても深くかかわることになりました。
ただすれ違うだけの関係と違って、ひとつひとつの命ある犬のことを真剣に考える日々が続きました。
グッドボーイハートでの出会いとその長さはあくまで飼い主さん側に選択権があるもの。
私がずっとその犬を育てたいと思ってもそういうわけにはいきません。
どんなに短いかかわりであっても、最善で最大にできることをしたい、それが私の気持ちです。
気持ちが先走り過ぎて内容が伝わらないもどかしさを飼い主さん側が感じられることも多いと思います。
人相手の仕事であるのに、ついつい犬の立場にたってしまい早くこの苦しみから抜け出す道をつくりたいと力が入りすぎてしまいます。
早くしないとレッスンの回数が終わってしまうからと焦って結果を出したいと思ってしまいます。
悪循環なのはわかっていても、犬は必ずこの苦しみから救われるのだということをどうしても伝えたくて疲れすぎてしまうことがあります。
私が変えようと思っても何も変わらないのだと常に言い聞かせながら、人よりずっと短い時間を生きる犬たちのほんのひとときを支える時間を今は大切にしています。
大切な時間とは犬が飼い主を幸せに暮らすことなのですが、もうひとつ大切な時間とは犬が自然と共に生きる時間を得ることです。
節目を迎えてグッドボーイハートも新たな年明けとなりました。
旅立った仲間たちはいつも私といっしょにいると。
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<日々のこと>節分という節目にお別れもあり出会いもあり
<自然のこと>ウイルスのニュースで動物のことを考える
毎日のニュースを通して次第に身近に迫りつつある予感のする新型コロナウイルスの脅威。
人気のいなくなった武漢の様子を映像でみていると、先日見たばかりの映画「アイ・アム・レジェンド」の風景と重なってしまいました。
街中でもマスクをしている人を見かけることが多くなり、ちょっとした咳すらはばかられるような緊張感もあります。
ウイルスがどのように発生するのかなどをここで考える必要はないのですが、ウイルスは動物と動物の間をいきかう生物であることは間違いありません。
そしてウイルスはなんらかの形で動物の中にあったものが変異を通して新しい形となり、対応できない動物たちに侵入しその数を増やしていくというのが私の中でのイメージです。
その変異の過程は動物たちを取り巻くいろんな環境の中で生じているものであるものの、動物の扱いに関連しているような気がするのです。
今回のウイルスも野生動物を食べる習慣があるから生まれたと一部だけを見て報道されているのをみると、少し見方が甘いのではないかと思います。
動物を食べる習慣は人類のはじめからあるのです。
動物は小さな空間に必要以上の数を閉じ込められるような環境で置かれるとウイルス発生の確率が高まります。
たとえば、犬の咳風邪のような症状を示すケンネルコフというウイルス感染の病気も、その名前のとおり犬たちが収容される犬舎=ケンネルで発生するものです。
多数の犬を閉じ込める空間、預かり場所だったりケンエルだったり、お店だったり、多頭飼育だったり。
そんな空間で窓をあける空気の循環が悪くなれば、ケンネルコフはわりと簡単に発症してしまいます。
ケンネルコフそのものは致死率の低い病気で、免疫力さえ持ち直せば軽い咳を通して改善していく可能性があるため、あまり恐れられてはいません。
ワクチン予防接種の中に含まれているものの、感染しても気づかず治癒しているケースもあります。
ただこうしたウイルスも次第に変異を遂げていく可能性があるので、油断は禁物です。
新しいウイルスを作り出さないためにできることは、多頭収容で動物にストレスを与えないというルールを徹底して行うことだと思います。
中国では生きたまま動物を売り買いしたり、店に出す直前に殺傷するような風習もあります。
衛生的かつ安全に保管して管理するシステムや習慣がないからかもしれません。
その点は日本では野生動物を狩っても素早く処理をして安心安全にありがたくいただく習慣がありますので、全く環境は異なります。
家畜として収容されている牛であれ鳥であれ、人間から与えられた環境の中で新しいウイルスをつくり人へ感染していくというのシステム、自然の摂理として片付けるだけでなく人への戒めとして受け止める必要があると思います。
うちは多頭飼育ではないから大丈夫と思っている犬の飼い主のみなさんにも、一頭であっても室内に閉じ込めるような生活が続けば動物はみな病んでいくのだということも頭にいれておいていただければと思います。
ちなみにですが冒頭の「アイ・アム・レジェンド」ウイルスミスが主演のウイルスに侵されて閉鎖された都市でウイルスの撲滅に挑む主人公を描いた映画です。
ゾンビなどが登場するストーリーは好みの問題ですが、主人公同様に存在感のあるサムという犬の演技と動きのすばらしさには感動ものなので、グッドボーイハートお勧めの映画です。
<クラスのこと>大濠公園で初デートレッスン
急にお預かりになってしまった犬ちゃんを連れて大濠公園まで出かけ、他の生徒さんとイヌちゃんを待ちました。
私の方から仕掛けた「初デートレッスン」です。
仕掛けは思いつきではなく経過があります。
数ヶ月前にこの犬ちゃんと犬くんをグッドボーイハート七山でお預かりしたことがあります。
2頭の犬ちゃんたちは初対面。
犬くんの方は初のお預かりで環境になじみつつある途中でした。
そこに犬ちゃんが預かり到着で合流したのです。
犬くんの方ははじめて女のコと同じ空間で長らく時間を過ごすことになりました。
犬ちゃんの方は幼い性質でどんなワンちゃんにも相手をしてほしいアピールを低い姿勢でアピールするようなコです。
はじめは戸惑う犬くんですが、女のコの臭いをふりまかれたのに少し男心が芽生えてきたのでしょうか、すごく遠巻きに臭いとりをしながらほんの少しずつ向きあう時間ができてきました。
お話が盛り上がり始めたところでの犬くんの帰宅時間となりました。
この様子をさらに遠くから眺めていた私が、この初デートのお散歩練習会を思いついたのです。
本来なら男子から申し込みするデートの設定ですが、今回は仲人変わりの私が両方の飼い主さんに提案しました。
預かり犬ちゃんの飼い主さんもお預かりのお写真を見ていたので、あの犬くんとだったらと快く承諾してくださいました。
そして迎えた当日の大濠公園の現場です。
過去にあったことのある犬ちゃんと犬くん、飼い主さんとしては「覚えているのかしら」というのがはじめの疑問でしょう。
なんらかの関わりを持った犬についてほとんどの犬は覚えているものです。
ただ時間の経過と共に脳の情報や消去されていきますし、人と同じように忘れやすい脳というのもありますので確実とは言えません。
良い感情を抱いているものが残っていれば、より良い再会となります。
会う場所は過ごし方によって全然違うということです。
大濠公園で対面した犬ちゃんたち、お互いに和やかに臭いとりを交わしあいながらゆっくりといっしょに並んでのお散歩となりました。
散歩中は危険なのでカメラ撮影はできなかったのですが、お互いに横にいても相手を恐れることもなく競うこともなく飼い主さんのリードのもとにゆっくりと散歩を進めていきました。
途中のベンチで休憩し飼い主さんと犬くんの状態についてお話中も、犬ちゃんの方は近くの臭いが気になりくんくんとしていましたが、犬くんの方は周囲を見張っていたりしてなんとなく良い感じにはなりました。
大濠公園のカフェでお茶をしているところ、リードを長くして犬の後ろをついて走る人がすごい勢いで近付いてきそうになりました。
あまり近くになるときは割って入ろうと思ったのですが、犬くんの方が「ワン」と一声威嚇。
そもそも目的を失ったのか走ってきた犬と人はコースを変えて通り過ぎました。
犬ちゃんを犬くんが守るような感じになり、男前をさらに一段とあげていました。
犬と犬が関わるということを、飛びつきあったりあまがみしあったりプロレスしたりすることだけだと思ってしまうと関わらせ方を誤ってしまうこともあります。
同じ空間にいる、目の前にいる、お互いに興奮を下げていくというただ単純なことの繰り返しは人にとっては単調でつまらないものかもしれません。
でも大切なこのことを、大人の犬に近付く年齢、それは2才くらいからですがそのころからは気を付けてつくっていってあげてください。
<犬のこと>猟師にとって一番大切なもの
先日から猟の話題が増えています。
先に書いたのですがダンナくんが罠猟の免許取得のために猛勉強しており、同時に鉄砲猟のテキストも学んでいていろいろと細かな情報を私に与えてくれるためです。
またテキストに書いてあったある秘訣を教えてもらいました。
猟を成功させるためには3つ重要なことがあるらしい。
下からいうと第三位は「鉄砲の技」
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというわけにはいかないようです。
第二位は「足」
なるほどですね。
山を歩いて歩いて歩いてなんぼというところですね。
第三位はなんと「犬」だそうです。
猟は犬の性能ひとつでどうなるかが決まるということらしいのです。
でも犬の良し悪しといっても、犬の猟犬としての素質だけではありません。
猟師とどのように連携できるのか、気持ちが通じ合っているかどうかなど日本の猟犬に必要なものがたくさんあります。
そこには「人」と「犬」のつながりが見えてきて、なんとも深いなあと思います。
ダンナくんの方はそんなことが猟のテキストに書いてあったことに大変驚いていました。
今までダンナくんの中では犬がそんなに重要な役割を果たしていたとは思っていなかったからだと思います。
猟に犬、いればいいけどいなくてもねえという程度だったのかもしれません。
阿吽の呼吸でつながる猟犬と猟師の姿。
日本では消え去る文化のひとつに入っているかもしれません。
家庭で犬と暮らしている方々は猟犬などあまり関心を持たれないでしょう。
ですが犬にも「ルーツ」というものがあって、犬にとっても人にとってもそれはとても大切だということをお伝えしておきます。
犬はそもそもオオカミだったのかとか?犬はどうして人と暮らすようになったのかということを考えたり知ったりすることは、イヌという動物そのものを知る大切な鍵なのです。
日本では猟犬という存在は人と犬のかかわりの歴史の中で排除して考えることはできません。
同時にこの猟犬という存在が、現在にその一部では道具のように扱われ始めているという事実もあります。
猟期が終わると捨てられる猟犬というのが存在するのも事実です。
これらの事実は私たち日本人とイヌが長い時間をかけてつくっていた大切な歴史を否定してしまうものです。
だから猟犬といってひとくくりにして嫌悪的にならず、真の猟犬の姿とは何かということろに焦点をあてて見定めていく必要があるのだと思います。
山渓から素敵な本が出ています。
写真右手の本です。ぜひご覧になってください。
<犬のこと>犬の食欲が落ちたら考えてあげたいこといろいろ
犬のゴハンにまつわるトラブルといえば、ゴハンの前や最中や後に犬がかみつきをするというものが昔は多かったと思います。
ところが、最近のゴハンにまつわるトラブルは、どちらかというとゴハンを食べないということです。
犬はバクバクとゴハンを食べるのが当たり前だと思われているのに、ゴハンを食べないということがあることすらあまり知られていません。
食べるのが当たり前だと思われている犬がゴハンを食べないのですから、飼い主としては心配なところです。
ドッグフードや手作りゴハンをいろいろと変えながら、犬が食べそうな食べ物を探していきますが、フードジプシーなるものに陥ってしまうこともあります。
ゴハンを美味しく食べることができない理由のひとつめは、ドライフードに添加物が多すぎることでおきます。
添加物は化学薬品と同じようなものなので人工的な臭みがあります。
この薬剤の臭いを嗅ぎつけると動物は自然に拒否を示します。
小さな犬の中にはドライフードが大きすぎてかみ砕けないことがあります。
噛み合わせが悪くてかたいものを食べられない犬もいます。
自然な素材で本犬の口のサイズや形にあったものであれば、犬は喜んで食べてくれるでしょう。
そうであっても食べないということであれば、犬の活動量などの生活習慣を見直してみましょう。
屋外でしっかりと活動すればお腹がすくのでゴハンを食べたくなります。
お散歩の時間が長くても、緊張した不安な散歩を続けると逃走モードが高まってしまい胃が委縮してしまうので食事を受け付けることができません。
食事は受け付けないばかりでなく、ストレスがかかると食欲が過剰になります。
ストレスで乱れた食欲による食事は満たされることがなく、食べても食べても次が食べなくなる食事になります。
このあたりは人と同じですから思い当たることがあるかもしれません。
ストレスによって胃酸が過多になったり足りなくなったりするのです。
犬のストレスは生活環境によって生じます。
犬からしてみれば普通のことが、今の都会の生活では得られにくいからです。
太陽とか土とか風とか、そうした普通のことが得られなくなっています。
それが犬の最大のストレスなのです。
もしこうした自然と接しないことを犬がなんとも思わなくなってしまったら、犬は本当にバカになってしまったのだと、人がバカにさせてしまったのであるということでしょう。
自然とのつながりをくれるのが犬という動物です。
犬の食事が上手くいかなかったら、生活全体を見直してみることをおすすめします。
<自然のこと>猟・犬・求・ム!
野生動物は繁殖期に入ると食べ物を探す行動が活発になります。
グッドボーイハート七山でもオポのお墓周辺から駐車場の近くまで、イノシシが土を掘り返した跡がたくさんあります。
トレッキングに来られる生徒さんはびっくりされることもありますが、例年のことなので特に驚くこともありません。
オポが作っていた見えない境界線はオポがいなくなるととたんになくなってしまいました。
イノシシたちは平気で人と犬の生活空間に入ってきてしまいます。
お互いのテリトリーだと思い込んでいるところで突然接触をすると危険なことも考えられます。
となると、イノシシたちに対して警告を与えていく必要があります。
いろいろと方法はありますが、一番適切な方法は境界線上に罠をはり入ってくるイノシシを捕まえるということです。
もちろん捕まえたイノシシは食べます。
捕まえたら学習するからリリース(解放)すればいいではないかという考え方もあると思います。
それは価値観の違いではありますが、捕食の体系を維持するためには捕食者として数の増え過ぎたものは狩って食べる。
これが人間としてできることのひとつでもあります。
むしろ里山に住む人としてやらなければいけないことのひとつではないかと思っています。
最近はジビエ流行りでもあって、イノシシやシカを食べることを野蛮だとは思われなくなりました。
イノシシやシカは適切に捕って食べなければ、その数が増え過ぎて最も害を被るのはその動物たちの方なのです
。
手始めにダンナくんが敷地内にセンサーカメラを設置してイノシシの活動を監視しています。
いくつかの場所でイノシシ、アナグマが通り過ぎる姿を確認しました。
自分は夜でも昼でも実際にイノシシが歩いているのを見たり、アナグマが納屋に子供を産んで育てていたのを体験したのでビデオを見てもそれほど興奮はしません。
ですが平地で育ったダンナくんの方は、すぐそこの場を大型の野生動物が通過する姿を撮影した画面で確認してかなりテンションが上がっていました。
男女という性別の違いもあるのかもしれません。
男性には捕食者としてのDNAが強く残っているのでしょうね。
犬もオスとメスではオスの方が主に狩りの役割を担います。
もちろんメスも狩りはしますが、メスたちには子育てという大切な任務がありますから、そのためにはオスがしっかりと稼いでくるということです。
狩りを仕事にあてがえば男性がちゃんと働いてくれると女性は安定してくるという理論は動物らしいルールです。
この動物のいた気配をカメラがなくても知ってしまうのがいまみなさんのそばに寝ている「犬」という動物です。
山を歩いていると地面をクンクンと鼻を全開にして臭いを嗅ぎ分けている犬の姿を見ると、一体どんな動物がいつそこにいたのだろうと想像を膨らませます。
複数の犬がいても臭いを嗅ぎまわる場は大体同じ場所です。
犬と犬は臭い嗅ぎをとおして「なあ」「うん」とお互いに情報を共有しているのに、私だけがそれを知ることができないのが残念です。
でも私には犬の行動を分析する力があります。
犬の嗅ぎ分け方や嗅いだあとの反応や犬の体の動きを見ていると、そのにおいの主が大きな動物なのか小物なのかはある程度想像がつきます。
大きな動物の方が興奮度が高く緊張感も高まる感じが伝わってくるからです。
こうして犬から情報を得ることはトレッキング中の楽しみのひとつです。
自分たちの鼻という武器を最大限に利用して人に協力してくれる犬という動物、狩りには欠かせない友であることは言うまでもありません。
イノシシを七山で狩る自分の中でももうひとつの目的は「そうしないと動物が馬鹿になるから」なのです。
戦う相手も誰もおらずただ柵で仕切られただけで安穏と生きていく動物は、バカになってしまいます。
罠をつくれば罠にかかるのは警戒心が低く衝動性の高いバカな動物です。
罠という存在を知って考えて行動し頭脳を発達させていくことはイノシシたちの将来にとっては利益になるものです。
要するに必要以上に捕らない、バランスを考えて捕るというルールが絶対であるとは思います。
人間は捕食者の頂点なのです。
自分を知って行動を抑制できるのは自分だけしかないと思います。
<人イヌにあう>犬の子供っぽい可愛らしさは悪夢にもなる
先日のブログ「<人イヌにあう>服従するという言葉の意味を理解できないわたしたち人間と犬」の続きになります。
このブログを読む前にひとつ前のブログをご覧になると話の流れがわかりやすいです。
イヌにとって人と上手く暮らしいく上で大切な二つの特質として、ローレンツが挙げているのは次の二つです。
ひとつは犬が動物としてはとても幼稚性を継続させているということ。
二つ目は犬の群れに従属し主従関係を大切にするということ。
この二つの性質については飼い主としては理解しやすいものだと思います。
どちらもイヌが人と暮らしていく上で重要な性質ですが、同時にこの二つの性質は人がイヌと暮らしていく上でも重要だということを強調しておきます。
このふたつの性質をどちらも欠いたイヌについてローレンツは次のように述べています。
引用:
たいていの性質上の特質と同じように、子どもっぽさは、その程度によって長所にも短所にもなるものである。
それを完全に欠いているイヌの独立性は、心理学的には興味深いかもしれないが、飼い主にはたいして喜びをあたえてくれない。
というのは、このイヌたちは手に負えない放浪者で、ごくたまにしか家に居つかず、飼い主の家を尊重しないからであるーこのような場合、飼い主を「主人」というわけにはいかない。
年をとるにつれて、このようなイヌは危険なものになりがちである。
典型的なイヌの従順さを欠いているため、かれらは他のイヌにたいしてそうするように、人に噛みついたり脅かして追っ払ってしまうことを「なんとも思わない」からである。
引用終わり
こうしたイヌは一般的に家庭犬としては不向きであり、管理することすら難しいので家庭犬として繁殖されることもありません。
人が飼うことの難しい野犬にはこの性質が非常に濃く出ていて、彼らは人に対して怯えを示すばかりでなく、室内でマーキングしたりモノを壊したり、すみっこに固まっていたりする行動を示します。
保護施設でも人になつきにくい性質が子犬のころから出ていますので、一般的な飼い主の手に渡ることは珍しい犬といえます。
ここで、みなさんは「やっぱり犬は誰でも尾を振って近づいてきて飛びついたりお腹をみせたりすり寄っていく犬がいいのよね」と思われるかもしれません。
室内で犬を飼う方、特に小型犬や大型犬でも室内飼育をすすめられるような犬と暮らしている飼い主の多くがイヌに求めているのはひとつめの「犬の幼稚性」であるからです。
犬が誰にでもなつきやすく、興奮しやすく、すり寄っていきやすく、そして飛びついたり甘えたりする行為が最近は好まれるようです。
こうした気質は外で番犬とする上では決して奨励される行為ではないからです。
家の庭や玄関先に番をはる犬は、特定の人にはなつきやすいけれど、他の人になつくのには時間がかかるという性質をもつからこそ番犬となるからです。
二つ目の性質は室内飼育の犬たちには求められないため、幼稚性だけを高めた犬が増えていきます。
こうした犬についてローレンツはこう述べています。
引用:
この放浪性やそれにともなう主人や場所にたいする忠節の欠如を非難するからには、私は、子どもっぽい依存心が病的なまでに残っている場合には、それが完全に欠如しているときに起こるのと驚くほどよく似た結果を示すことがあることをつけ加えておかなければいけない。
引用終わり
この文章を10回は読んでください。
こうした文章は文字で追うことはできても、頭の中にいれるのには時間がかかります。
人は自分が拒否をしたい内容が書いてあるとそれを排除してしまおうという生理的反応を起こします。
子供っぽい依存心が残っている、というだけならまだしも、「病的なまでに」という原文がどのような表現かは不明ですが、病的なまでに子供っぽい犬たちを私はたくさん見てきました。
さらにつづきます。
引用:
たいていの飼いイヌの場合、子どもっぽさがある程度残っていることがその忠節の源となるのだが、それのゆきすぎはまさに反対の結果を導きだすことになるのである。
このようなイヌは、主人に対して極端な愛情をみせるが、同じく誰にたいしてもそうするのだ。
前著『ソロモンの指輪』で、私は、このタイプのイヌを、どんな男でも「おじさん」と呼び、他人にみさかいのない馴れ慣れしさを示して困惑させる、甘やかされた子どもとくらべてみたのもである。
このようなイヌは自分の主人を知らないのではない。
その反対に彼は喜んで主人を迎え、他人にたいする以上に、あふれるばかりの愛情で主人を遇するのだが、その直後には、近づいてくるつぎの人物に向かって走り去る気持ちになるのである。
引用終わり
誰に対してでも緊張せずに接することができることと、誰に対してでもむかっていってとびついたり体当たりしたり体を摺り寄せることは違うのです。
ローレンツがここで述べている幼稚性の抜けないイヌは、人をみると走り出しとびつき、あまがみや鼻ならしをするイヌのことです。
引用:
すべての人間にたいして示すこのみさかいなしの馴れ慣れしさが病的に残っている幼児性の結果であることは、この種のイヌのあらゆる行動で立証される。
彼らはいつでもふざけすぎるし、生まれてから一年もたつとふつうのイヌなら落ち着いてしまうころにも、主人の靴を噛んだり、カーテンをひっぱってめちゃめちゃにしたりすることをやめないのである。
とりわけ彼らは、ふつうのイヌならば数ヶ月後には健全な自信にとってかわられるべき、奴隷のような従順さをもちつづける。
すべての見知らぬ人にたいしてはお義理で吠えるだろうが、厳しい口調で呼びかけられるとこびへつらうように仰向けにひっくりかえる。
そして引き綱(リード)を手にしている者を、誰でも自分の恐れ多い主人として受け入れるのである。
引用終わり
すでにこの状態に入ると室内でいろいろと自分の居場所を獲得するこの幼稚な犬たちは飼い主の膝やその周辺にまとわりついているため、決していつもいたずらをするわけではありません。
行動としては飼い主に手をかけたりかまってくれと要求したりとんだり跳ねたりするのです。
しかも何かあるとひっくり返ったりして自分が子供であることをアピールするあたりはローレンツも指摘しています。
イヌの幼稚性=子供っぽさの強さは、それが完全に欠如しているときと同じような結果を示すというローレンツの言葉がすべてを物語っていると私も思います。
みなさんはどう思われるのか。ぜひご意見ください。
<人イヌにあう>服従するという言葉の意味を理解できないわたしたち人間と犬
ブログはグッドボーイハートを知っていただくためのツールであると同時に
自分が考えたり思ったりしたことを整理するための場でもあります。
とはいえ、考えがある程度はまとまらないと一定の文章にはなりません。
考えていることやコトバにしたことは頭の中にあふれていますが、それをコトバにするまでに必要な時間がかなりかかってしまいます。
日常生活の中でやらなければいけない業務が押し寄せてくると、考えをまとめる時間もなくブログの更新も遅れます。
長くなりましたが、ブログの更新が遅れている言い訳ということです。
それで今日はなんども話題しているけれど、なかなか言葉では伝えられない服従という言葉の意味と行動について尊敬するローレンツに助けを借ります。
ローレンツの「人イヌにあう」の三章には絶対に必読です。
三章は「忠節の二つの起源」です。
犬の「忠節」などという言葉をきくとかの銅像にまでなった秋田犬を思い出す方が多いでしょうが少し切り離して考えてみましょう。
最初の引用部は、イヌの忠節=人に対する信頼のふたつの起源についての仮説です。
引用
イヌの主人にたいする信頼は、二つのまったく異なった起源をもっている。
一つは主として、若い野生のイヌをその母親に結びつけるきずなが生涯持続することによるものであり、飼い犬の場合には幼い時期の気質の一部が習性保持されることによるのである。
忠節のもう一つの根源は、野生のイヌを群れのリーダーに結びつける群れへの忠誠、あるいは群れの個々のメンバーがおたがいに感じる愛着から生まれるものである。
引用終わり
つまりは、イヌの人に対する忠実な態度は以下の二つが起源だとローレンツはいいます。
1 親子関係
2 群れへの忠誠
全くもってその通りであってこの仮説を覆す学者はまだ知りません。
親子関係を強調する場合が強い傾向があったり、群れを重んじる傾向があったとしても、まずはこの二つなのです。
ここからは持論ですが、この二つは移行していくように見えて実際には1がベースとなる上に2が生じて関係が継続しています。
子犬のころに人がイヌを迎えたときに、まずは里親という形で文字通り親として子犬のお世話をします。
子犬は人のことを次第に理解しながら、人の親の保護のもとで育てられていきます。
同時に子犬や幼少のころから親犬に対して、群れのリーダーに示すような服従性のある行動を示しています。
それはもはや日本では見られなくなりましたが、あいさつができるようになった幼稚園生くらいの子供が母親や父親に対して両手をついて「おはようございます。」というような姿なのです。
ただイヌには野生のイヌ科動物には見られない、家畜化された特性があります。
それは丸い頭や巻いた尾垂れた耳などみなさんにはなじみのあるイヌの顔ですが、野生の動物では若い時期にしか見られない容貌です。
家畜化によって得られた子供っぽさは人に対する親子関係を継続させる土台となるための特質ですが同時に危険性をはらんでいることもローレンツは指摘します。
引用
たいていの性格上の特質と同じように、子どもっぽさは、その程度によって長所にも欠点にもなるものである。
それを完全に欠いているイヌの独立性は、心理学的には興味深いかもしれないが、飼い主にはたいして喜びを与えてくれない。
というのは、このイヌたちは手に負えない放浪者で、ごくたまにしか家に居つかず、飼い主の家を尊重しないからである
このような場合、飼い主を「主人」というわけにはいかない。
年をとるにつれて、このようなイヌは危険なものになりがちである。
典型的なイヌの従順さを欠いているため…
引用
と続いていくわけですがここでコメントいれます。
イヌには群れに所属するという基本的な服従性があるが、それは若い犬の従順さが基盤になって支えられているので、前者だけではうまくいかないということです。
人とイヌとの関係に大切なことだからこそ家畜化されたイヌたちの容姿にその情報が刻まれているのです。
もしイヌだけの群れであったとしても、独立心の高すぎる性質ではイヌはグループの中には入れません。こうしたイヌ科動物は日常的に単独行動をするようになりそのような個性をもつイヌが出てくることも不思議ではありません。
こうした個性による服従性のばらつきはローレンツの時代にも通常おきていたようで、どちらも併せ持つ理想の忠実なイヌはあまり多くないことも付け加えられています。
とりあえず今日はここまで。
<クラス>お預かり中の犬ちゃんと山歩きを満喫
年が明けてまた緊急のお預かりが入ったので急いで七山へ移動しました。
福岡でのレッスンのご予約もありましたが、自営業のダンナくんがパソコンを持って急遽七山に簡易作業場を設置しながらお手伝いしてくれました。
七山と福岡を行ったり来たりするのは大変疲れることですが、七山の環境に慣れてきた犬ちゃんたちが山を満喫して過ごしてる姿を見るとその疲れも吹き飛びます。
お預かりの最初はお試しの様子を見る預かりです。
何度もお預かりクラスに来てくれる犬ちゃんたちは、やがてグッドボーイハート七山校が別荘のような状態になっていきます。
環境になじみ行動が安定してくると管理をゆるめることができます。
トレーニングの基本姿勢です。
回数がすごく多くなるとトレーニングの枠を超えて、もはやお預かりの犬ちゃんたちは「うちの子」になります。
「うちの子」の笑顔を見たくて、福岡と七山を行ったり来たりしているわkです。
福岡に訪問レッスンの際に「今日七山から来たんです。今から七山に帰るんです。」というと、大変ですねとびっくりされます。
でもですね。山を満喫する犬ちゃんたちの姿をみたら、少しは頑張らなければと思ってしまうのです。
自分の体力と気力が続くまでということでいつまでこんな往復生活ができるかわかりませんが、うちの子と思える犬たちの喜ぶ姿が見たいのです。
そして最後は、飼い主さん自身にこの犬たちのイキイキとした姿をたくさん見ることができるようなそんな環境との出会いあることをいつも願っています。
画像は七山のオポの家の玄関前の庭です。
小さい子がいます。探してください。
<犬のこと>新年早々新聞コラムに質問殺到「まさか散歩する犬にオムツはありですか?」
早々にお年賀状をいただきありがとうございます。
年賀状は時代に合わないのか差し上げるのも相手のご負担になるのかと考えたあげく、昨年はブログでのごあいさつのみにさせていただきました。
しかし結果としていただいたお年賀状に対して申し訳ない気持ちになり、今年は潔く年賀状を送らせていただきました。
皆様の健康と幸せを願うだけの気持ちと元気で精進させていただいているというご挨拶だけですが、送らせていただいてとてもさっぱりとした気持ちになりました。
その年賀状の中にもあったのですが、また昨年から新聞のコラムを読まれた生徒さん方から「これってどうなんですか?」と多少の怒りを込めたご質問が集中しましたのでまずはお答えいたします。
そのコラムを直接読んでいないので伺った内容になるため多少の違いがありましたらご了承願います。
コラムの話題は犬を散歩中の排泄後のマナーとして水をかけた方がいいのか、かけない方がいいのかという話から始まります。
水をかける飼い主さんは犬の排尿の臭い消しのマナーとして実行されていますが、水をかけることが逆に臭いを拡散させることになるのではないかという意見もあるということなのです。
実際のところ、犬が排泄をする素材により結果は変わってくるでしょう。
排泄をした地面が土などの柔らかいものであれば、水を流すことでより早く地面に吸収されるようになり表面的な臭いは薄れる可能性があります。
地面がアスファルトの場合には横に側溝があってそちらに排水できる場合にも臭いは薄まります。
ところが地面がアスファルトなのに水の行き場がないときには、流した水が地面に広がることになります。
薄めた結果として拡散されるというほどではありませんが、水の流れる方向によっては嫌悪感を受けられる場合もあるでしょう。
もし3点目のような場所であれば、そのような場所は犬が排泄する場所としては避けるということをお勧めします。
ただこれでは問題は解決しません。
では公園で犬に排泄をさせることがいいのかという議論です。
公園は犬が排泄をする場として作られたわけではありません。あくまで人が自然を感じる休息の場として都心には公園があるのです。
人が休憩している横で犬に排尿や排便をされて気持ちがいい人はいません。
だけど仕方ないことだと受け入れる人が多いのです。
犬が公園で排泄しないならどこで排泄したらいいのかという議論になります。
そこで最近は飼い主の敷地内や室内で排泄をさせてから散歩ではさせないようにしようというマナー啓発が進んでいます。
福岡市もこの方向性で指導をしていますが、これは人側の立場にたった考えとしては当然の発想ともいえます。
その発想の延長戦上に、散歩をさせるときに犬にマナーベルトやオムツをはめる習慣をつけさせてマナーを遂行させることができるという意見が専門家の意見としてコラムに掲載されました。
この散歩中のオムツ問題にグッドボーイハートの飼い主さんたちは大変は違和感を覚えて多少の怒りを交えながら私に訴えてくださったのです。
犬が散歩してオムツ?。その怒りは犬の立場にたって考えることのできる方の怒りなのです。
だからグッドボーイハートの生徒さんたちがこのような怒りを持ってくださることをとてもうれしく思いました。
同時に公衆衛生を指導する立場にある犬の専門家としてはオムツ提案にならざるを得なかった都心の犬を飼うことの難しさも理解できます。
犬の行動と習性の倫理からするとこれは明らかに動物福祉に反したことで、犬の行動をいびつにし結果としてストレスを与えることになります。
犬を飼うものとして犬を愛するものとして決して推奨される行為ではありません。
だったら私たちは何を求めていったらいいのでしょうか。
犬を適切な環境で一緒に暮らしていきたいなら、犬を人が共有で楽しめるもっと広い公園を福岡市の街中につくる必要があります。
福岡には空いている土地などなく地価も高騰していて、新しい公園をつくる予算などないことはわかっています。
地域の結束力が落ちた現在、地域で寄り集まって新しい公園を作ることもできないことも理解できます。
犬の行動できる範囲は福岡では行き詰っている感じが満載です。
都市空間は未来に向けて3次元的にもっと変化してくる可能性もあるのでしょうか。
時間をかけての空間作りは個人の力ではどうにもなりません。
でもひとりひとりの犬と暮らす飼い主が本当の理解という知識を持って結束することは絶対に必要だということは言い切れます。
散歩中に犬にオムツをさせることですが、私は絶対に反対します。
犬の立場に立つということが飼い主としてのマナーであると信じています。