グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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まやかし

いつも通りの山の散歩道。あれ?こんなところに道があったっけ?

何度も歩いた道のわきに、いつもはないきれいな一本道。
みなれた光景のはずなのにいつもないものがそこにある。

まるで「どうぞいらっしゃいまし」とのれんが開いているかのように。
今まで気づかなかっただけなのか、それとも…。

ちょっと調子が悪いなと思うときは簡単に判断しない。
大丈夫、パートナーはそばにいる。
山の友の反応はどうだろう。

やっぱり、すぐに動こうとはしていない。
動く必要のあるときはオポは率先して前進する。
迷わず前進のときには「先に」何かを確認する行動であることは、他のシグナルからも十分に伝わってくる。
今はそのときではないということか。
といってこのままこの課題を無視して去るのはもったいない。
ここはひとつチャレンジしてみようかな。

好奇心だけで行動すると危険ということは理解している。
抑制をかけながらどう行動しどう感覚を得るのか自分を試してみたい。
自分の脳のはずなのに、ときどき自分を試す脳もいるはず。ちょっと時間があるからできることなのかもね。

さてと。今いる場所に必ず戻ってくるために慎重に一歩ずつ新しい道へと足を踏み出す。
一歩踏み出すたびに後ろを振り返って、元いた場所があることを視覚で確認していく。
あわてて足を踏み出すと振り返ったときにはもうその場はないからね。

オポは私が進んだところよりあまり前に進もうとはしない。
行きたくないでもないし、行こうでもない。
どうやらこの友は私に付き合ってくれている様子。

ならば遠慮なく挑戦あるのみ。もう一歩。もう一歩。

道の先には「わかりやすい目印」のように木が見えている。
あの木まで行けるかな。
もう一歩。そしてまた振り返る。

そろそろ限界かな。到達することを目標にすると今やっていることを忘れてしまう。
よしここまででOK。今来た道を戻って元いた場所に帰る。

ここで起こること。
山で迷子になったことがあるなら知っているだろう
本当に不思議なことが起こる。

今いた場所に確かに戻った。確かにこの地点から歩きだしたはずだけど。
ところが戻ったその地点は最初にいた場ではなくなっている。
右から来たのか前から来たのか、いや左から来たのか。
山の中ではこういう視覚的トリックにたまに陥ることがある。

山の友は迷っている感じではない。
「オポ…どっちだっけ」の問いかけには無反応。
そうだね、君は私のガイドではないしこれは私の課題だった。

再び協力に感謝。
グランディングして右を見て左を見て、そうそうこっちが家に帰る方向だね。
歩きだしてからもしばらくはいつもの道に戻らない。
正しくはいつもこの道を歩いている感覚に戻らない。

まやかしは山からやってきたのか。
まやかしは自分の中にいたものなのか。
山に入るときに「今日の調子」を知るようになったのもちょっとした成長なのかもしれないな。
だといいけどね。

あれ、今度はオポが異変をキャッチしたみたい。
あー。ごめんごめん。
キャッチした異変は写真を撮っている私のことか。
ほんに失礼しました。

私が山の友になれるのはいつの日かな。
成長に年齢は関係なし!
飼い主の成長を見守ってね、オポ。

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季節の贈り物

最近のオポは「ギフト」づいている。

「オポさんに…」とお客様が差し出されるものは大根、ニンジン、カブ・・・といった季節の野菜たち。
野菜だけでなく柿やりんごも並ぶようになった。
一家の主として遠慮なく有り難くいただているようだ。

ところが近頃、山でもちょっとしたいただきものがある。
植えたばかりの栗の木の根元や山の頂上など
オポの立ち寄る場に偶然を装うかのように置かれているもの、それは最高級植物繊維発酵食品。

差し出し者 「山の主」
受け取り者 「里の主」といったところだろうか。

山に住んでいるにもかかわらず、発酵食品がなかなか手に入らない。
山といっても長きに渡り人が手をいれた場だ。
食べられるものは食べつくされているし、山の中に実のなる原木が残っているわけでもない。

発酵しているものを求めて歩くオポにとってこれほどすばらしいギフトはない。
それは私たち人間にとっては衝撃的な臭いだけど、オポの必要性を感じると喜ばずにはいられない。

一度食して場を記憶すると翌日は必ずその場に立ち寄る。
動物の学習とは本当に不思議なもので覚えさせようと苦労せずとも、覚える必要のあることはきちんと理解して記憶する脳がある。
オポにとってはそれほど必要な食べものということだろう。

オポという犬とそうでない動物のかかわりを感じながら、人としての私は蚊帳の外にいるように思えた。
この栗の木と柿の木に山の恵みがなったら、その仲間入りができるんだろうか。

雪が積もった。
冬が始まるね。

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外食な日々

お久しぶりになってしまいました。
やっと待ち望んだ秋の季節にやりたいことがたくさんありすぎて、頭の中ではなんどか書いたつもりになっていました。

毎日楽しくて愉快なことが起きています。
都会のような刺激はないので登場するのは私かオポか周囲の生き物たち。

オポの行動範囲は以前よりずっと少なくなっているのに、なぜかワクワクすることが毎日起こっています。
新しいイベント事を生活に持ち込んだわけでもなく、新しい趣味に走っているわけでもないのにね。

やりたいことがたくさんあるといってもたいしたことではなく外にでて伸びをしたり庭をウロウロしたり
たまにわんこ山に登ってゴロンと横になるオポとただ過ごしたり冬支度のための準備を始めたりしているだけのこと。

そんななんともないような日々なのに愉快なことはわりとあってブログに紹介しようかな~とおもっているうちに、
また新しく愉快なことに出会というくり返しになってしまう。

秋になって虫達が行動しなくなってきたこのごろは、オポも庭で過ごす時間が多くなってきた。
最近のオポの楽しいことといえば「お外ゴハン」。
もちろんゴハンは食器で出され規則正しく食べているけど、庭に転がっている大根の頭や柿なんかを見つけて食べることが
いつの間にか日課になってしまった。

お皿にいれて「はい」って渡されたらすぐに食べられる。
庭に投げたものは見つけるまでに多少の時間と労力がいる。
前者の方が親切のような感じがするが、実は後者の方が楽しかったりもするのだ。

朝からあったものを夕方になって見つけて食べることもある。
急いで食べる必要のないものはそのままにしているけど気が向いたらまた食べていることもある。

太陽の下で風にあたりながら食べることの不思議さ。
ハイキングにいって食べるゴハンのおいしさ。
カフェテリアで太陽にあたりながら飲むコーヒーのおいしいこと。
動物にとって何か大切な要素を含んでいると感じる。
実は私も季節のいいときにはお昼をテラスで食べている。なんでもないものがなんともおいしいのだ。

特別なものを食べないと満たされないと感じるときは、自然とのつながりを取り戻すときかもしれない。

2011/06/27 15:45

2011/06/27 15:45



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栗の思い出

七山の野菜屋さんに栗が並ぶ季節になった。
山のあちこちにある栗畑でも栗の実がどんどん落ち始めている。

この季節になるといつも思い出すことがある。
それはまだ学校を卒業して間もないころで、犬の訓練所に見習いとして働いていたときのことだった。
季節は秋になり見習い作業も随分身にはついていたが、下っ端の者の仕事は次が来るまで譲ることができない。

当時の下っ端の仕事のひとつに訓練をしない犬の散歩があった。
老犬、病気をもった犬、訓練の対象から外されている犬、繁殖犬など。
彼らとの共によく歩いたのが訓練所から歩いていくとたどりついた栗林の間に作られた随分長く続く林道だった。

訓練所は山中にあったが隣町から中央の町へと走り抜ける車が朝晩に忙しくそこを通っていたようだった。
でも昼間の散歩時間には車はほとんど通らず快適な散歩道となった。

栗の季節にこの道を犬と散歩していると、車のタイヤにつぶされたいくつものりっぱな栗が落ちていた。
栗林には人が入らないように柵をしてあったが林道に接する栗の木から落ちて転がった栗が道にたくさんあった。

「あー、もったいない。朝の車が通るときにつぶされちゃうんだね。」
当時は大好物だった栗の実を見ながらあることを思いついた。
私の住んでいるアパートはこの栗林のすぐそばだった。
夜中でも訓練所にいけるように最短の場所に住むことも見習いの仕事だった。

「朝のうちにこの栗を拾いにくればいいんだ。」栗林に立ち入って栗をとるのは泥棒だけど
どうせ車につぶされてしまう栗を拾うのは許されるだろう。ということで朝の4時に起きて栗拾いに出かけるようになった。

1日の栗の収穫はスーパーの袋にいっぱいになるほどだった。
アパートに戻ってすぐにその栗をゆがき朝はゆで栗を食べて出勤し、昼はゆで栗をお弁当にもっていく。
夜もゆで栗を夕食変わりにした。

見習いの身分なのでお給料というものをもらっていなかった。
当時はそんなこともまかり通る時代だったのだと思う。
少々のお小遣いなので普通に食べることができない。
だからこの栗は私にとっては特別な神様からの贈り物だった。
栗の収穫できるのは1週間~10日くらいだったと思う。

栗を1日3食、お金を払って食べようとは思わない。
でも、食べるものを買うお金もなくてお腹は空いている。
なんでもいいから食べられるものがあれば喜んでいただく。
それが神様からのいただきものであればただ感謝していただける。
オポが山で野いちごを食べているときもこんな気持ちなのかな。

先日、七山のあるパン屋さんで「先日のパン…代金は震災の募金へ」と書いたパンのバスケットを見つけた。
いつもは1袋100円のラスクが20円で売っていた。
100円をもっていないわけではないのに20円のラスクを手にしたのがなぜかうれしい。
ラスクは時間がたっていたからか少し湿り気があった。それでも20円で買えたことがとても幸福に思えた。

なんでもたくさん持っているから幸せになるわけではない。
喜びとは人それぞれだから図ることができない。
いつもはあり得ない形でそれが手に入ったとき神様っているんだな」と感じられるからかもしれない。

栗の実の御恩返しをするときがそろそろやって来た。わんこ山に栗の木を植えよう。
偶然ホームセンターにあった栗の小さな苗木を2本買った。

栗は3年で実をつけるというけどこの実は私が食べるために植えるわけではない。
オポが食べる機会を得られればそれは素直にうれしい。
でもその機会を得られなくてもきっと誰かが喜んでくれる。
タヌキか鳥か、いつの日かこの栗の木の横を通った人が栗の実を命にかえるその日のために。

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虫の音

9月中旬。まだ秋というには暑い日々がつづいている。
それでもすこしずつ存在を明らかにする秋の生き物たち。
中には歓迎できないものもある。

この季節に繁殖期を迎え一斉に孵化する生き物がいる。
トレッキングクラス後は「帰宅したらまずコロコロで…」が退治の適切な方法となる生き物。
そう・・・それはダニである。

最初の陣のダニたちは本当に小さく砂のようにしか見えない。
山を歩くと足から背中からお腹から、小さな砂が「あれ・・・動いている?」
それがりっぱなダニの成虫たちだ。
吸血すると小さな黒ゴマくらいにはなる。
一度に30匹以上つくことも不思議でないほどいる。

犬たちは若干体を搔いたり身震いをしたりして、多少の抵抗は示すがダニに刺されて腫れあがることはない。
ところが人間は大変なことになる。

山に移ってはじめてこの虫に吸血された時は「・・・」
言葉にならないほど落ち込んだ。

「ダニにかまれるような私ではなかった」と思い込んでいたけど、正確には
「ダニにかまれるような環境に生活していなかった」だけ。
都会生活ではオポにダニがついているのをみつけても「ダニーさん」などと身近な印象となるような呼び名をつけ
テープにくっつけて数を数えるほどの余裕だった。

ところがここでは、私もそのダニーさんの餌食になってしまう。
2年目にこの虫にやられたときには・・多少の怒り。
3年目の今年は・・ちょっと悲しいくらい。
気持ちは少しずつ変化している。
気のせいかもしれないけど体も少しだけ免疫をつけたかも。

生物は多様であることで環境は豊かになるのだ。
ダニはその多様な生物のひとつに過ぎないし同じレベルで私という人間もそのひとつに過ぎない。

犬のように免疫は高くないが、幸い私たちには知恵がある。
虫さされには木酢液やビワの葉のエキスなどが炎症を抑える効力をもつ。
知識を知識のままで終わらせないために、植物の力を感謝していただくことにした。
こうしていろんなものに支えられる事を知り、自然界の一生物としてもっと謙虚になることが求められているのかも。

夏の終わりから冬の始まりまでの短いこの季節に、昼夜を問わず音を鳴らしている草の中の虫たち。
こんなに長い間音を出し続けるこの虫の力に驚き朝から晩まで、寝ている最中でさえもこの音を聞いている。

都会で音が鳴り続けば精神的に不安定になるのに、この虫の音は逆に私たちをある方向へ導いてくれる。
ラジオで「虫の声を聞いて育つと何かの力がつく」と言っていた。
それが何だといったのかすぐに忘れてしまったが、私なりに申し上げるなら「原始力(げんしりょく)」かな。

でも、今人類の課題になっているあの「げんしりょく」とは違う。自然を敬うことで得る力のこと。


いつの間にか虫達が声を上げる季節が過ぎて、あーみんないなくなったな、と思うと新しい季節が来て。
たくさんの生と死のつながりの中にいる自分。
その中にある原始力。
オポが犬としての本来の姿を取り戻す中で、この力をつけてきたことを感じる。


人間がびっくりするほどのダニーさんのおみやげがあっても
「ダニがつくからもう山を歩くのはいやだよ。」とはいわない。
「ダニがつくから山にいくのは止めようね。」というのは人間の方だものね。

虫の音を聞いて原始の力を取り戻す時間は、ただ感謝して受け取る自然の贈り物なのだ。
短いこの季節をただ感謝のときとしよう。

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庭の闇

台風の接近とともに谷間のここでも猛スピードの風を体感できる。
蝉の鳴き声が消えた瞬間に次の季節の到来を歓迎することになる。

そうはいっても緑の生き物たちはまだまだ元気。
夏だというのに最近の梅雨のような雨と太陽の交互合戦に一番喜んでいるのは彼らかも知れない。

草刈大会を来週に控えてはいるけどこのまま丸投げでは使用人としての責務が果たせない。
ということで今週は毎朝の草刈行に挑むことになった。

昨日は2時間ほど家の北側で草刈をやったつもりだったが実際には半分の1時間をアブと格闘していた。
それも1匹でなく、数匹で総攻撃をしかけてくる。
向こうが何もしないのならこちらも無視して過ごしたいけど体にとまってチクリとするので苛立ちを抑えることができない。
そのチクリは挑発だということは知っている。攻撃のときにはもっと、つまり思わずうめくほど痛い。

相手が犬のときには「挑発にはのらない」ルールの導入は簡単なのに、ことアブとなると簡単に挑発に乗ってしまう。
アブと格闘している自分を客観的にみれば馬鹿馬鹿しい。
タオルでおっても意味がなく高みの見物からいきなり襲ってくる。
脚やら腕やら背中やら、もちろん洋服の上からでも刺す。
はらっているうちに自分でおいた箒の柄につかえて転び、腹が立つやら悔しいやら…。

犬のことに置き換えてみれば答えは簡単に出る。
要するに挑発される自分に隙があるということだ。
アブという生き物と対等になれない。
どこかへいってくれればいいと思っている。
目の前をブンブンと飛び交いうるさく騒ぎ立てる様子を微笑んで見ていることができない。

昨日の学びを今日の草刈に生かしてみた。
今日は彼らの挑発には乗らないと決めた。
どんなにブンブンきても草刈作業に専念し自分を失わないことにした。
あなたがそこにいるのは構わない。だけど私の邪魔をしないで。

結果はいうまでもなく大成功だった。
今年の夏もたくさんの虫さされの跡をこさえ夜もろくに眠れない日々に気持ちが弱くなっていたのかも。

草刈をしていると、のびきった緑の中に「闇」の世界ができはじめ、その「闇」に住む生き物を食べる生き物が集まってくるという
あるひとつの世界ができ始めていることがわかる。
家の周囲に闇夜はつくりたくないという理由で「闇」を払っていくが、住む生き物は逃げ食べる生き物はテリトリー侵害を訴えてくる。

生き物としては正当な主張に過ぎない。
ごめん、ごめん。今度から「闇」ができる前にこまめにするよ。

さて、今年は家の周囲を住処にしているしま蛇のご夫婦に会わなかった。ひとつのシーズンに10回以上は遭遇していたのに。
もしかして・・・食っちゃったのかな、猫田さん?

来年は会えるといいな。

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山で暮らすこと

世の中は“地デジ”とやらでいろいろと忙しいようだけど、テレビのない生活をしている私には外の世界のこと。
「テレビくらい買いなさい」といわれたこともあるけど、必要がないのだからいらないものはいらない。

みんな知っているのに私は知らないことが増えていくけど、別に“おいてけぼり”にされている不安は感じない。
もはや流行の芸能人の名前など全く知らないし、新製品のCMなども見ることがないから何が新しいのかも知らない。
ところが、今のところ生活に困ることもないしとにかく関心がない。

関心があるのは、今日部屋の中に何匹の蚊が侵入してきたのかということ。
庭の草がどのくらい伸びてきたのかということ。
山の木の実がいつ実をつけはじめたのかということ。
何時になったら陽が昇って、何時になったら陽が落ちるのかということ。
オポが何をして何を感じて何を語っているのかということ。
そして、自分が何をして何を感じ何を言葉にできるのか。

テレビを手放そうと感じ始めたのは都会の時代。
多忙な生活の中でテレビをただ眺めることで自分を失くしている感じを得たから。
テレビが悪いのではなく、私のテレビとの付き合い方があまり良くなかった。
そもそも生活というものを大切にしていないから当たり前だろう。
ということで、オポオススメの山暮らしで「生活する」ことを学ぶ。

ところがこの山暮らしには大変なことがたくさんあった。
そのひとつが草刈。

今日はグッドボーイハートの助っ人を得て庭の草刈り&藪刈りに挑んだ。
いつかいつかが今日となり、庭の草は相当生い茂ってしまった。
予定の1時間を大幅に超えてよい草刈の時間を過ごすことになった。
汗をたくさんかくので体の老廃物が一気に出ていく。

不安定な場所に立つことはグランディングの実践になるし
おそってくるアブにひるまないことは強さ試しにもなる。
そしてなにより、何も考えずに目の前にあるものにだけ向き合うこと。
そのうち目の前にある草ではなく自分に向き合う時間ができる。
そんなことをみんなへの呼び水にしているけど
呼びこみ用の宣伝じゃないから実践して体感してほしい。

もちろん草刈が大変でないとはいわない。
でも草刈が生活となると、大変だとは言ってられない。
やらなければいけないことはやらなければいけない。
やるのだったら堂々と向き合っていきたい。

今日、草刈中に急な斜面で滑り落ちそうになったとき、ある映画の中のセリフが浮かんできた。
「使命に向かわなければあるのは苦難だけ」
この映画では魔の指輪をたくされた青年が生死をかけて使命に挑む。
でも使命って毎日の生活の積み重ねだと感じるから、生活の中でやるべきことを使命と受け取ると自然と勇気もわいてくる。

草刈の後に山の育てた恵みの梨をみんなでいただいた。
梨の実は本当においしかったけど、おいしい理由はそれだけじゃなく、感謝していただく気持ちもいっしょだったから。

オポは庭にでるといつもより遠くまで出かけていった。風が通り行動しやすくなったんだろう。

そんな小さな出来事がうれしいから
しばらくテレビを見ることはないかな。

世の中のことは「1分ほど手回しで電気を充電させると1時間は聞けるラジオ」があるから大丈夫かな。

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夏の戦い

ある明け方、蝉たちが一斉に産声をあげた。
ついに来た。本当の夏がやってきた。

裏庭に広がる草藪に住む虫たちとの戦いが続いている。
全ての条件が整わないと生存しない虫がここにはいる。
おそらくちょっと山を下ればお知り合いになれない虫たち。

その中で一番やっかいでどうにもならない刺し虫はヌカカと呼ばれている。
このあたりでは「しのぶ」という名前らしく、本当に忍んでくる。
網戸も通過し、最強の蚊帳も平然とくぐって哺乳動物の生き血を吸いにくる。
起きていても寝ていても刺されるのだからどうしようもない。
吸血するだけならさほど苦にはならないのになぜか猛烈にかゆく痛い。
1日複数の刺し傷に痛みとかゆみが数週間も続くのだからこんなに不快なことはない。

さすがのオポもヌカカにはやられてしまう。
外に出ると一度に10ケ所以上、それも腹部を狙ってくるから大変な腫れようで
痛々しいその傷にどくだみの葉をもんでぬると赤みは数分もすれば引いてしまう。
かゆみも痛みも感じないのかオポはそう長くそのことを気にしたりはしない。
要するにそんなにかゆくて痛いのは自分の抱えている問題だということ。

ローリングサンダーだったらビネガーの瓶を差し出して
「そうした問題はどうにでもなるものだ。」と、いうだろう。
そこで、私も毎日のように酢を体にいれ毒をできるだけとらないように生活の基本に戻る。

まあ、そんなことをしていても窓の外をみると生い茂った草と暗闇。
こんな快適な生活空間を虫に提供していることがいけないのだ。
ひろがる藪に虫のとびかう戦いの場に鎌を持って出るにはエネルギーがいる。
泣き寝入りして毎日増える虫さされの後を数えるくらいなら立ち向かうしかない。

ちょっとした恨みつらみなんかがあるのであれば、「こんちくしょう」と思いながら草を刈るのかもしれないけど
そうした思いが今のところはない。
考え事をしながら草刈をしているとケガをすることはすでに経験した。
目の前に立ちはだかる草に目をそらさず向き合いながら、ただひとかりずつ鎌を振ることに集中していた。

虫のことも、この先どのくらい刈らなければいけないかも、今日どのくらいしなければいけないのかもなにもかも忘れ、目の前に今ある草のことだけをみながら1時間の草刈が終わった。

何かに立ち向かおうとするときは焦りも目標も絶望も捨てて、今できることをとにかくひとつしようと行動を起こすことにする。
そう思ったときからそしてひとつ行動を起こしたことから、不思議なことに虫さされのかゆみがなくなっていた。
「なんで刺されたんだろう」「これからどのくらい刺されるんだろう」と不安になったり怖がったりおびえたりすることの方が、自分の内面を悪くしていることがはっきりとわかる。

オポの腫れがすぐにひくのはそもそも彼がそうした状態であるからだ。
草刈の時間にはいつもオポがそばにいて見張り番をしてくれた。
でも、今日はひとりで立ち向かった。
11歳という扉を開けたオポにはゆっくりとする時間が必要だし、私ができることはひとりでやらなくては。

頭からつま先まで汗でびっしょりとなり部屋にはいると、オポが生き生きと私を待っていた。
「なんか大根かなんか落ちてなかった?」
そんなもの探してたんじゃないよ、オポくん。

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子連れ母さん:山に暮らす動物との貴重な出会い

ここもずいぶんと暖かくなってきた。
白は茶から緑にかわり、飛んだり歩いたりする生き物たちをみかけるようになった。

オポと山で過ごす時間も自然と長くなる。
雪の中に座りこむのはちょっとしんどいけど、こんなに春を感じる冷たい風なら大丈夫。
山の休憩場所に伏せて土を思いっきり体で感じているオポ。
さて、もう少し先へ進もうかと腰を上げて共に歩きだす。

山道を歩き始めたところでオポの鼻先が風の臭いをとる。
その瞬間、オポの鼻先の方向に動物たちが横切った。

いの母さん(イノシシのお母さん)、うり1号、うり2号、うり3号…
育って単独で行動する猪は、犬と人の気配に対する行動は早い。
だが、この母子集団の動きはいかにも遅い。

先頭のいの母さんはうり坊たちの走る速さに合わせているのがわかる。
前後の間隔も保ちながらも一列になって尾根を越え、来た場所へ戻っていった。

「で、そのときオポは?」 はみなさんの定番の質問。

彼はいの母さんとうり坊やたちが尾根を超える直前まで立ち止まってその動きをみていた。
いの母子集団がもう少しで見えなくなるというときに、少し早足で近づいた。

さて、どちらへ?

猪の去っていく方向へ追いかけたのではなく、さきほどまで猪がいた場所の方に動いた。
猪は私たちの位置から10メートルくらい先を横切る形でいなくなった。
猪を追いたいのなら左に行くべきところを、猪がさっきまでいた右へ移動したのだ。
そして彼らがいた場所の臭いをとり、だれであったかを確認していたようだ。
その後も走り出してそれを追うことはない。

もう何回かこの場所で猪に遭遇したが、オポが興奮したり毛を逆立てたり
走って猪を追いかけたりする様子をまだみたことはない。

尾根越しの鉢合わせではなかったのでどちらも緊張感が高くはなかった。
もう少しいうと、今回遭遇した場所は私たちが休憩していた所からそれほど離れていない。

知ろうと思えばお互いに相手の存在を知ることができる距離なのに
それを知る必要がないということがすべてをわかりやすくしてくれる。

うり坊を追いかければ、もちろんいの母さんは攻撃に転じたかもしれない。
なにしろうり坊は犬でいうと8キロくらいのサイズで、犬にとっては「ごちそう」だからね。

オポの行動も私の行動も、ひとつ違えば全てが違う。

「山で猪にあったらどうしたらいいんですか?」とよく聞かれる。
つまり、
犬にリードを付けるか首輪をつかむ
犬を声で呼び戻す
何もせずに犬に任せる
逃げる
などのどれを選択すればいいか、ということを聞かれる。

申し訳ないけど答えはない。
「猪に出会ったら、あなたと犬は何を感じどう行動するのか?」
という質問に自分で答えを出すのが先かもしれない。

おなかの空いていないオポが単に動物をおいかけて遊ぶこともない。
若い犬なら遊びの対象にするかもしれないけど、それはそれで学ぶことは山のようにある。

何が起こったのか、どう対応するのかも重要かもしれないけれど
自分の中に起きていることを知ることが最も大切なことだから。

いの母子家族に出会った私たちに起きたことを言えば「共に生きている」ことを知ったこと。
先の質問に答えがないなら「答えが出るまで出会うチャンスがあるだろう。」
チャンスはなんどでも来る。それをチャンスと思えば、ね。

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ナティボなこと

今年はリンゴをたくさんいただいた。
寒冷地でタフな食べ物は貴重な食材。このリンゴたちは私とオポのエネルギーの糧だね。

いただいたリンゴをテラスの椅子の上に乗せておいた。
戸口を出入りするたびにオポのセンサーが反応する。
椅子の上のリンゴをみたまま静止してなかなか戻ってこない。
このセンサーは私につながっている。
「ああ、見つけたのね。でもこれは今食べられないよ。」

こうしたことはなかなか伝わりにくい。
特にテラスというテリトリーは微妙なのだ。
室内でもなく、屋外でもない、お互いに判断が下しにくい場所でもある。

それでリンゴを置く場所を変えてみた。
私の頭よりも高い棚の上。
この位置であればオポのナティボも納得する。

理解しがたいことを説得するよりも 犬の本能に働きかけた方が早い。
オポは棚の上から漂うリンゴの臭いをキャッチはしたが
それを口にできない葛藤は生まれなかったようだ。
あとは熟して落ちてくるのを待つだけだ。
これで万事めでたくおさまったかのように思えた。

ところがある日…忘れていたことに気づかされた。

それは、鳥ナティボ(本来の鳥)である。
静まり返った冬の日々にひたり、動物たちの存在を忘れていた。
鳥に獲付けなどするつもりはなかったが、鳥ナティボの勝利を祝って、さくらんぼの木につつかれたリンゴを移動させた。
突然現れた実に、この辺の鳥たちは忙しくなった。
モズから、カラス、そしてトンビまでが集まってきた。そしてリンゴは1日でなくなった。

動物たちには分かち合う力がある。
食べる順番もちゃんと決まっている。
捕食する動物だけが得をしているのではない。
必要以上に採らなければちゃんと自分の分は回ってくる。
必要以上に採ると自分の分もなくなってしまう。
ルールを決めた動物はいない
調和を学んでいるだけだから。

だからナティボはすばらしい。

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Posted in 日々のこと, 自然のこと