グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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心地よいとき

今年も満開になったコデマリの花がドライフラワーとなって美しく枯れていく姿を見せ、
雨降る日をまちのぞんでいた紫陽花が季節の移り変わりを教えてくれる頃となった。

オポの様子についてお心遣いのコトバをいただいた。
そのオポはただ毎日を力いっぱい生きながら今までと変わらず、
出会いある人々や犬たちに必要なメッセージを届けながら過ごしている。

オポの日々の体調変化には敏感な私も、それを点としてとらえず、流れの中のひとつとして
受け取ることができるようになってきたようだ。

そんな中で、毎日の生活を共にするパートナーとして
「心地良いと感じるとき」と「違和感を感じるとき」を
彼がわかりやすく伝えてくれることには感謝している。

たくさんのメッセージの中から見つかった物の中に
私が「あることをしている時間は心地良いときが流れる」ことを知った。
「あること」というのは「手針仕事」のことである。

きっかけは、着れなくなった服をバッグに作り変えたことだった。
一度つくってみると結構楽しくて、いくつも出来上がってしまい
数が増えたのでチャリティバザーに出したりしていた。

電動ミシンのようにスピードのある道具にはついていけない。
古い手回しのミシンを助っ人におきながら、ほとんど手でチクチクと布を縫いながら夜がふけていく。

この時間はオポの安眠を妨げることもない。
どこかゆるやかな時間が流れていくのを感じている。

なによりも私が落ち着いた気持ちでいるからなのか。もちろん、作品作りにこだわりはない。
いつでも途中で止められるし、失敗しても平気である。
目標を達成しようなどとは思っていない。ただ、ひと針ひと針を通すだけ。

「以前からこんなことが好きだったですか?」と聞かれるが、とんでもない。
お裁縫道具は小学生時代で時を止めていた。
何時間もただ縫うだけの作業をできるようになるとは、忙しい自分には思いもよらぬことだった。

オポがひなたぼっこをするその横で部屋で風にあたっているときにもその傍で。
こうした時間を共に心地良いと感じることができるのも自分の中で起きてきた変化のひとつではあるが、
その変化すらも、自分だけで実現されたわけではない。


本当に知りたいと思う。
何を知りたいのかもきちんと知りながら自分をみつめて学びを続ける日々。
そんな中で教えてもらったことのひとつ。だからこそ大切な「心地良いとき」なのだ。

とりさんとお昼寝縮小


Posted in 日々のこと, オポのこと

思考錯誤

2日前の宅配やさんとの会話

「あれ…なんの音ですか?」
「町内スピーカーです。(こわれたままだけどね)」
「えっ…もしかして雪?」
「そうです、雪です。」
「3月・・・ですよね・・・」
「そうですね。(なごり雪だからね)」

平地とはあまりにも季節含むいろいろとずれているここで「よくがんばりますねー。」といわれながら
移り変わる日々を楽しんでいるわたしたち。

季節が変わるということは環境が変わるということ。
いろいろとしなければならぬことも多い。

そもそも犬を家に招いて暮らし始めたことですでに仕事はたくさんある。

朝晩の給餌の支度
ベッドメイキング
ベッドの日干し
ダニとり
散歩のお供
足裏ふき
ひっぱりっこの相手
追いかけっこの鬼役
小腹がすいたときの野菜出し
夜の子守唄
エトセトラ…。

中でも回数の多いフレキシブルで高度な業務はドアマンかな。

排泄の度に
環境に異変を感じる度に
庭に出る必要があると本犬が感じるすべてのときに。

ドアをただ開けるためにそしてドアを閉めるために赴く。

オポが部屋からドアへ向かい、ドアに辿り着く直前にドアを開け
そしてオポが庭からもどり、あと50センチというところでドアを開ければ完璧なドアマンといえる。

とはいえ面倒なので寒い季節以外は戸口を空けたままにしてもみたが
それはそれでいろいろと問題があった。

トビ虫たちが入ってくる。
ツバメが入ってきた。
カエルが入っていた。
招かざる客にやんたさんは2回も来られた。

ということで網戸をつけて作戦を練る。
これだとオポが出るときは網戸を引いて開ける「ドアマン」がいる。
戻ってくるときは鼻で網戸を勢いよく押し開けて入ってくるけど
網戸に張り付いていた虫達は一斉に部屋へ投入される。

挙句のはてに結局は網戸を閉めにいかなければならない。
「網戸は開けて入ってくるから」などど油断をしようものなら網戸が開いたまま数十分もたってしまい
夜も更けるまで“蚊取り母さん”とならなければいけない。相当の体力を消耗する。

さらに問題はあった。
夜番の最中に数時間おきに屋外へお出かけになる。

排泄を目的としているのか…
確認をしたいのか…
飼い主の熟睡を妨げているのか…
その行動の動機に決断を下すには早すぎるが
とにかく数時間おきに起きてドアマンを務めている私。

それが毎晩続く。

冬時期の夜中にドアの前で主の帰りを待つ時間のながいこと。
寒いし眠いし、なかなか帰って来ないし。
たまには朝まで寝てみたいな~なんて思うようにもなってきた。

そうしたもろもろの事情から何か策を講じなければと本気になった。

せっかくいただいたドアマンという業務を放棄するわけではないが
きっとオポ専用の自動ドアは気にいると思うし…。
室内犬には「ペットドア」というしゃれたものがあるではないか。

ペットドア探しが始まったが現実はやはり現実だった。
ない・・・。サイズがないのだ。大型犬のサイズでもオポの顔しか入らない。
これではクマのぷーさんのイヌのオポさんバージョンになってしまう。

外ドアを取り壊すとなると即決するのは難しいが
とにかく網戸の出入りだけでもなんとかペットドアにならないだろうか。

そう思ってくると「ドアマンから解放された飼い主の楽さ」がちらついていてもたってもいられなくなった。

いろいろいろと考えているよりチャレンジあるのみだ。
網戸なら失敗したらまた張りかえればいいのだし、ということで網戸を切り裂いて簡易ペットドアにトライしてみた。

ところがこのドア、主様には不評であった。網戸が顔にあたって不快?
帰宅するときの経路の変更が分かりづらい。
ドアマンはなぜドアマンを務めないのか。

おっしゃることはどれも的を得ている。
なにより「いってらっしゃい」のあいさつと「おかえりなさい」のあいさつは一体どこへいったのだ。

やはりドアマンは必要なのだろうか。
思考錯誤の日々はつづく。

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Posted in 日々のこと, オポのこと

まやかし

いつも通りの山の散歩道。あれ?こんなところに道があったっけ?

何度も歩いた道のわきに、いつもはないきれいな一本道。
みなれた光景のはずなのにいつもないものがそこにある。

まるで「どうぞいらっしゃいまし」とのれんが開いているかのように。
今まで気づかなかっただけなのか、それとも…。

ちょっと調子が悪いなと思うときは簡単に判断しない。
大丈夫、パートナーはそばにいる。
山の友の反応はどうだろう。

やっぱり、すぐに動こうとはしていない。
動く必要のあるときはオポは率先して前進する。
迷わず前進のときには「先に」何かを確認する行動であることは、他のシグナルからも十分に伝わってくる。
今はそのときではないということか。
といってこのままこの課題を無視して去るのはもったいない。
ここはひとつチャレンジしてみようかな。

好奇心だけで行動すると危険ということは理解している。
抑制をかけながらどう行動しどう感覚を得るのか自分を試してみたい。
自分の脳のはずなのに、ときどき自分を試す脳もいるはず。ちょっと時間があるからできることなのかもね。

さてと。今いる場所に必ず戻ってくるために慎重に一歩ずつ新しい道へと足を踏み出す。
一歩踏み出すたびに後ろを振り返って、元いた場所があることを視覚で確認していく。
あわてて足を踏み出すと振り返ったときにはもうその場はないからね。

オポは私が進んだところよりあまり前に進もうとはしない。
行きたくないでもないし、行こうでもない。
どうやらこの友は私に付き合ってくれている様子。

ならば遠慮なく挑戦あるのみ。もう一歩。もう一歩。

道の先には「わかりやすい目印」のように木が見えている。
あの木まで行けるかな。
もう一歩。そしてまた振り返る。

そろそろ限界かな。到達することを目標にすると今やっていることを忘れてしまう。
よしここまででOK。今来た道を戻って元いた場所に帰る。

ここで起こること。
山で迷子になったことがあるなら知っているだろう
本当に不思議なことが起こる。

今いた場所に確かに戻った。確かにこの地点から歩きだしたはずだけど。
ところが戻ったその地点は最初にいた場ではなくなっている。
右から来たのか前から来たのか、いや左から来たのか。
山の中ではこういう視覚的トリックにたまに陥ることがある。

山の友は迷っている感じではない。
「オポ…どっちだっけ」の問いかけには無反応。
そうだね、君は私のガイドではないしこれは私の課題だった。

再び協力に感謝。
グランディングして右を見て左を見て、そうそうこっちが家に帰る方向だね。
歩きだしてからもしばらくはいつもの道に戻らない。
正しくはいつもこの道を歩いている感覚に戻らない。

まやかしは山からやってきたのか。
まやかしは自分の中にいたものなのか。
山に入るときに「今日の調子」を知るようになったのもちょっとした成長なのかもしれないな。
だといいけどね。

あれ、今度はオポが異変をキャッチしたみたい。
あー。ごめんごめん。
キャッチした異変は写真を撮っている私のことか。
ほんに失礼しました。

私が山の友になれるのはいつの日かな。
成長に年齢は関係なし!
飼い主の成長を見守ってね、オポ。

ブログ用わんこ山のオポ縮小

Posted in 日々のこと, 自然のこと

節分の前に

明日で2月3日。季節の分かれ目というこの時期にやってきましたね。雪の精たち。

天気予報で雪マークが出てもさっぱり降らない日が続くとつい油断が。
朝からオポのだるい感じに「いつもと違う」を受け取りつつも
朝ご飯の催促がないこのチャンスにと少し布団の中にいる時間が長くなり…
さあ、大変。道が白いではないですか。

積雪量はあまりないけど雪が降ったという感触はたしかに今シーズンはじめてのこと。
いつもと違うコンディションでも犬たちは余念なく。

やっていることはいつもと変わらない。
行動が広くなるか狭くなるかまあそんなところなのかな。

雪が生活の中になかったときにはもう少しテンションが上がったと思うけど
もしかしたらテンションが上がっていたのは私の方なのかも。
彼等はいつもと変わらない。
いつもよりもゆっくりとした感じになるみたい。

人間の生活にはいろいろと支障があり、早速お湯の管が凍結してでなくなってしまった。
なんと自然の前ではもろいもの。謙虚と感謝が生まれる日としましょう。

探す3縮小

Posted in 日々のこと

似てるけど違う

寒くなるのを決意したとたんに暖かくなった。
ちょっと休憩といったところかな…と思っているうちに再び厳しい寒さがやってきた。

ようするに「もうすぐ冬が来るよ~」というお知らせだろうがこうも気温の差が激しいと多少こたえる。
あまりの暖かさに死にかけていたカマキリが復活したり、部屋の中に蟻をみつけたり、そしてついにダニにやられたり。

あの熾烈な夏の戦いを思い出しながら「暑いのと寒いのどっちがいい?」の声が聞こえてくる。
もちろん寒い方がいいいよね、、、オポ。再び覚悟を決めて冬支度を急いだ。

暖かい衣類といえばここに移って出会ったのが綿入りの服たち。
中綿といってもダウンとかポリエステルとかではなくて本当のコットンのわたのこと。
私の母達の世代なら子供のころにだれでももっていた、半纏みたいなわたの入った服がお気に入りになった。
軽いし暖かいし、そしてやさしい。
そんな綿入りの布団をオポにも、と飼い主心でチャレンジしたが綿を薄く伸ばそうとすることの難しいこと。
結局ボコボコの綿布団みたいなものができあがってしまった。
オポ用の綿入りの半纏のイメージは消えていった。

とある生徒さんが「先生、綿を伸ばす機械がありました!」という。
そんなものがあるなら使ってみたいな、しかもその方はその機会を入手したというではないか。
さっそくその「機械」なるものを借りてみた。
円の中には毛のあるいろんな動物の絵が描かれている。
ラマ、羊、らくだ…。
この機械はウールのような動物の刈った毛を処理するためのものらしい。

さらに近づいてビックリ!

これってどこかでみたことがある。
スリッカーだ。
スリッカーをみなさんもお持ちだと思う。
犬を飼ったときに勧められる毛のお手入れ道具のひとつ。
私もずっと前にはスリッカーを使っていたがここ数年はスリッカーの使用に対しては積極的でない。
できれば使うことをおすすめしない。

なぜかというと「犬が好まないこと」を感じるからだ。
なぜあの道具が犬のために作られたのかを考えることはなかったけどこれを見て合点がいった。

そもそも犬のナチュラルな被毛は羊の毛とはその質が異なる。
ところが人の繁殖への介入によって本来の犬の毛とは異なる被毛の犬たちがあらわれてきた。
羊の毛のようにみえるもこもこの飾り毛の犬たちを。
その犬たちのために羊の毛を処理する機械の一部を、スリッカーという手入れ道具にしてくれたということかな。

見た目はにているようでも毛の質は全く異なる。
犬の皮膚にあてないように使ったとしてもその毛の強さは全く違う。
なんだか大きな勘違いのような気がする。

似ているけど違うものはたくさんある。
モコモコの毛質になってもその機能は全く違う。
本当のことを知ることが犬の役にたつのだろうに。
本当のことを知るためにできることって何だろう。

さて最初の目的の綿の処理については、結論からいうとうまくいかなかった。
コットンの綿と動物の毛では質が違うからね。
羊の毛を刈る知人ができたら、またあの機械を貸してもらおう。

10歳ブログ用

Posted in 日々のこと, 犬のこと

外食な日々

お久しぶりになってしまいました。
やっと待ち望んだ秋の季節にやりたいことがたくさんありすぎて、頭の中ではなんどか書いたつもりになっていました。

毎日楽しくて愉快なことが起きています。
都会のような刺激はないので登場するのは私かオポか周囲の生き物たち。

オポの行動範囲は以前よりずっと少なくなっているのに、なぜかワクワクすることが毎日起こっています。
新しいイベント事を生活に持ち込んだわけでもなく、新しい趣味に走っているわけでもないのにね。

やりたいことがたくさんあるといってもたいしたことではなく外にでて伸びをしたり庭をウロウロしたり
たまにわんこ山に登ってゴロンと横になるオポとただ過ごしたり冬支度のための準備を始めたりしているだけのこと。

そんななんともないような日々なのに愉快なことはわりとあってブログに紹介しようかな~とおもっているうちに、
また新しく愉快なことに出会というくり返しになってしまう。

秋になって虫達が行動しなくなってきたこのごろは、オポも庭で過ごす時間が多くなってきた。
最近のオポの楽しいことといえば「お外ゴハン」。
もちろんゴハンは食器で出され規則正しく食べているけど、庭に転がっている大根の頭や柿なんかを見つけて食べることが
いつの間にか日課になってしまった。

お皿にいれて「はい」って渡されたらすぐに食べられる。
庭に投げたものは見つけるまでに多少の時間と労力がいる。
前者の方が親切のような感じがするが、実は後者の方が楽しかったりもするのだ。

朝からあったものを夕方になって見つけて食べることもある。
急いで食べる必要のないものはそのままにしているけど気が向いたらまた食べていることもある。

太陽の下で風にあたりながら食べることの不思議さ。
ハイキングにいって食べるゴハンのおいしさ。
カフェテリアで太陽にあたりながら飲むコーヒーのおいしいこと。
動物にとって何か大切な要素を含んでいると感じる。
実は私も季節のいいときにはお昼をテラスで食べている。なんでもないものがなんともおいしいのだ。

特別なものを食べないと満たされないと感じるときは、自然とのつながりを取り戻すときかもしれない。

2011/06/27 15:45

2011/06/27 15:45



Posted in 日々のこと, 自然のこと, オポのこと

山の隣人

トレッキングクラスではようやく涼しい風と温かい太陽を交互に受け、「気持ちがいいね」といいながら歩けるようになったこの季節。
「先生のところがこわいんだよね。」という声も聞かれる。

怖いのは長々とお説教・・・なわけではない。怖さの理由は“寒さ”である。
外は暖かな日差しなのに家の中が寒い。
もっと寒くなればストウヴや暖炉といった人智の技もある。
ところがこの程度ではそんなものも準備していない。

ストールや上着やひざかけや毛布にくつ下、最近はカイロまでお持ちになるお客様もいる。
傍らには裸の大将が横になっている。
夏は息を吐き出しながら体温を下げ、寒くなると活動を通して体温を上げている。
やっぱり犬はたいしたもんだ。

気温が下がってくるとオポは山入りを解禁した。
夏場をしのいだ後なので私もとにかくうれしくて仕方ない。
年齢を重ねるオポがまだ山に登る姿をみられるし
私もいつの間にか山を近くに感じられるようになったようだ。

庭からわんこ山に入る途中、見慣れぬ細い道を見つけた。
さっそくオポとその道を登っていく。
驚いたことにその道は途中から山を下る道と合流し先日植樹したちいさな栗の木につづいていた。

栗の木を植えて数日後のことだった。
それは「いのさんの栗の木への道」だった。(※いのさんは猪の相性)
よくみるといのさんがおそらく顔を近づけたときについた泥跡があった。しっかりマークされている。

数日後、庭の斜面の上にオポの大好きなイチジクの木を植えた。
何日かするとオポがその木の周辺を入念に臭っているのを見た。
近づいてみるとイチジクの木につけていたしおりがなくなっている。
それにその周辺はなんだか踏み跡が多い。
イチジクのしおりはいのさんの作った柵の穴の前に落ちていた。
こちらもしっかりとマークされていた。

いっしょに植えた金柑の木はノーマークなのに。
こんなに広い場所なのに、なぜ栗とかイチジクを植えたことをすぐに知ったのか。
ここに来るまで全く会うことも見ることもましてや思うこともなかった
猪というお隣さんの不思議が楽しくて仕方がない。

そして先日ついにオポが「お庭ごはん」をしている場に山からの道ができた。
家のすぐに前だからか逃げるためなのか、それは絶壁にある道で
犬だってこんな坂は容易にはおりないと思える道だ。あのオポが食べ残すこともないはずなのに一体これもどうしたことだろう。

庭ではあちこちにその存在を印すいのさんと山の中で会うことは全く不思議ではない。
わんこ山を登るときにはいのさんの気配に注意しながら失礼のないようにドキドキしている私。
オポはどうなのかな。

星野道夫氏が熊の道を追う時に
「自分は熊に会いたいのだろうか会いたくないのだろうか」という気持ちになるといっていたが
まさに私もそんな気持ちになる。

猪に会って無事に終わったときはすごくうれしいのだ。
オポも猪に会ったあとは生き生きとしているのを感じる。
庭に猪が来る気配を知ると怖いというよりはワクワクする。
来てほしくないわけでもないし来てほしいわけでもないのに。

動物とのこうした不思議な距離間というのは動物としての自分を思い出させてくれる。
人と犬はすごく近い関係になってしまったけど、ベッタリが理解している関係とは感じられない。

そんな隣人がもうひとりいた。
このふたりの関係を見ることも毎日の楽しみになった。

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Posted in 日々のこと, オポのこと

栗の思い出

七山の野菜屋さんに栗が並ぶ季節になった。
山のあちこちにある栗畑でも栗の実がどんどん落ち始めている。

この季節になるといつも思い出すことがある。
それはまだ学校を卒業して間もないころで、犬の訓練所に見習いとして働いていたときのことだった。
季節は秋になり見習い作業も随分身にはついていたが、下っ端の者の仕事は次が来るまで譲ることができない。

当時の下っ端の仕事のひとつに訓練をしない犬の散歩があった。
老犬、病気をもった犬、訓練の対象から外されている犬、繁殖犬など。
彼らとの共によく歩いたのが訓練所から歩いていくとたどりついた栗林の間に作られた随分長く続く林道だった。

訓練所は山中にあったが隣町から中央の町へと走り抜ける車が朝晩に忙しくそこを通っていたようだった。
でも昼間の散歩時間には車はほとんど通らず快適な散歩道となった。

栗の季節にこの道を犬と散歩していると、車のタイヤにつぶされたいくつものりっぱな栗が落ちていた。
栗林には人が入らないように柵をしてあったが林道に接する栗の木から落ちて転がった栗が道にたくさんあった。

「あー、もったいない。朝の車が通るときにつぶされちゃうんだね。」
当時は大好物だった栗の実を見ながらあることを思いついた。
私の住んでいるアパートはこの栗林のすぐそばだった。
夜中でも訓練所にいけるように最短の場所に住むことも見習いの仕事だった。

「朝のうちにこの栗を拾いにくればいいんだ。」栗林に立ち入って栗をとるのは泥棒だけど
どうせ車につぶされてしまう栗を拾うのは許されるだろう。ということで朝の4時に起きて栗拾いに出かけるようになった。

1日の栗の収穫はスーパーの袋にいっぱいになるほどだった。
アパートに戻ってすぐにその栗をゆがき朝はゆで栗を食べて出勤し、昼はゆで栗をお弁当にもっていく。
夜もゆで栗を夕食変わりにした。

見習いの身分なのでお給料というものをもらっていなかった。
当時はそんなこともまかり通る時代だったのだと思う。
少々のお小遣いなので普通に食べることができない。
だからこの栗は私にとっては特別な神様からの贈り物だった。
栗の収穫できるのは1週間~10日くらいだったと思う。

栗を1日3食、お金を払って食べようとは思わない。
でも、食べるものを買うお金もなくてお腹は空いている。
なんでもいいから食べられるものがあれば喜んでいただく。
それが神様からのいただきものであればただ感謝していただける。
オポが山で野いちごを食べているときもこんな気持ちなのかな。

先日、七山のあるパン屋さんで「先日のパン…代金は震災の募金へ」と書いたパンのバスケットを見つけた。
いつもは1袋100円のラスクが20円で売っていた。
100円をもっていないわけではないのに20円のラスクを手にしたのがなぜかうれしい。
ラスクは時間がたっていたからか少し湿り気があった。それでも20円で買えたことがとても幸福に思えた。

なんでもたくさん持っているから幸せになるわけではない。
喜びとは人それぞれだから図ることができない。
いつもはあり得ない形でそれが手に入ったとき神様っているんだな」と感じられるからかもしれない。

栗の実の御恩返しをするときがそろそろやって来た。わんこ山に栗の木を植えよう。
偶然ホームセンターにあった栗の小さな苗木を2本買った。

栗は3年で実をつけるというけどこの実は私が食べるために植えるわけではない。
オポが食べる機会を得られればそれは素直にうれしい。
でもその機会を得られなくてもきっと誰かが喜んでくれる。
タヌキか鳥か、いつの日かこの栗の木の横を通った人が栗の実を命にかえるその日のために。

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Posted in 日々のこと, 自然のこと, オポのこと

セミナーを担当させていただきました

先日、行動学入門編のセミナーを担当させていただきました。
このセミナーはグッドボーイハート主催のものではなく
ご縁があった動物管理センターの職員の提案に協力する形で開催が決まったものです。

当初は管理センターの職員の方を対象としたセミナーとなるはずでしたが
直前にいろんな変更が重なり対象者を変えて開催することになりました。
ドッグスピリッツやグッドボーイハートのメンバーも参加できることになり
良いタイミングで新たな視点にたつ機会として参加できた方もいたようですね。

動物管理センターの存在やその役割について充分に理解している人はまだ少数でしょう。
処分される動物たちがいることやその動物を思いやる気持ちも大切ですが、もっと別の視点から見たり聞いたりすることで気づくことを必要とされていると感じます。

たとえば、なぜ動物を管理する施設を私たち自身が作り今も必要としているのかを知ること。
また、その施設がどのようなシステムによって運営されどのような目的を果たしているのか。
そして動物の福祉活動という形で動物管理センターなどの施設との関わりを持つ場合には
求められていることは何で、自分にできることは何かをはっきりとさせる必要があること。
こうしたことが自分の中でベースとしてあるという事が関わりをもつ相手を安心させることにもつながります。

私が心がけているボランティアの姿勢というのは以下の3つです。
「私にできることは何かを知っていること」
「相手が何を求めているのかを知っていること」
「共にできることは何かを共に考え見つけて行動をすること」

今回のセミナーは動物管理センターの職員のみなさんと共通の情報を持つことで
「共に何ができるかを共に考える」入口になればという気持ちで内容を決めました。

もっと一気に飛び越えて「ああしたら、こうしたら」と大きな動きを期待されがちですが
最初の変化は少しずつ起こってくるものです。
小さな変化をくり返しながら次第に必要に応じて変化するときには大きく変わります。
こうした物事の原理はみな同じなのかもしれません。

飼い主が犬に対して「こうなってほしい、ああなってほしい」と期待することは
逆に犬を落ち着かない状態に追い込んでいきます。
また「かわいそうだから」と手を出しすぎることも同じ結果を生み出します。

小さな変化が起こるように飼い主自身が協力してその環境の改善に取り組めば
犬の行動や内面はゆっくりと変化をはじめ、気づくと大きく変わっていることがあります。

こうなったらいいのに、ああなったらいいのに、という気持ちは一旦奥へ置き
現実をよくみて話しあいできることから始めていくのはいかがでしょうか。

現実をよくみるということは自分自身をよく知るということです。
自分を知って関わることで自分が成長するチャンスをいただくことになり
そのことが関わる全てのものにとって良きものとなれば、それはまた自分に還ってきて感謝して受け取るすばらしいものとなります。

ブログ用山から下を見るオポ

Posted in 日々のこと, 犬のこと

虫の音

9月中旬。まだ秋というには暑い日々がつづいている。
それでもすこしずつ存在を明らかにする秋の生き物たち。
中には歓迎できないものもある。

この季節に繁殖期を迎え一斉に孵化する生き物がいる。
トレッキングクラス後は「帰宅したらまずコロコロで…」が退治の適切な方法となる生き物。
そう・・・それはダニである。

最初の陣のダニたちは本当に小さく砂のようにしか見えない。
山を歩くと足から背中からお腹から、小さな砂が「あれ・・・動いている?」
それがりっぱなダニの成虫たちだ。
吸血すると小さな黒ゴマくらいにはなる。
一度に30匹以上つくことも不思議でないほどいる。

犬たちは若干体を搔いたり身震いをしたりして、多少の抵抗は示すがダニに刺されて腫れあがることはない。
ところが人間は大変なことになる。

山に移ってはじめてこの虫に吸血された時は「・・・」
言葉にならないほど落ち込んだ。

「ダニにかまれるような私ではなかった」と思い込んでいたけど、正確には
「ダニにかまれるような環境に生活していなかった」だけ。
都会生活ではオポにダニがついているのをみつけても「ダニーさん」などと身近な印象となるような呼び名をつけ
テープにくっつけて数を数えるほどの余裕だった。

ところがここでは、私もそのダニーさんの餌食になってしまう。
2年目にこの虫にやられたときには・・多少の怒り。
3年目の今年は・・ちょっと悲しいくらい。
気持ちは少しずつ変化している。
気のせいかもしれないけど体も少しだけ免疫をつけたかも。

生物は多様であることで環境は豊かになるのだ。
ダニはその多様な生物のひとつに過ぎないし同じレベルで私という人間もそのひとつに過ぎない。

犬のように免疫は高くないが、幸い私たちには知恵がある。
虫さされには木酢液やビワの葉のエキスなどが炎症を抑える効力をもつ。
知識を知識のままで終わらせないために、植物の力を感謝していただくことにした。
こうしていろんなものに支えられる事を知り、自然界の一生物としてもっと謙虚になることが求められているのかも。

夏の終わりから冬の始まりまでの短いこの季節に、昼夜を問わず音を鳴らしている草の中の虫たち。
こんなに長い間音を出し続けるこの虫の力に驚き朝から晩まで、寝ている最中でさえもこの音を聞いている。

都会で音が鳴り続けば精神的に不安定になるのに、この虫の音は逆に私たちをある方向へ導いてくれる。
ラジオで「虫の声を聞いて育つと何かの力がつく」と言っていた。
それが何だといったのかすぐに忘れてしまったが、私なりに申し上げるなら「原始力(げんしりょく)」かな。

でも、今人類の課題になっているあの「げんしりょく」とは違う。自然を敬うことで得る力のこと。


いつの間にか虫達が声を上げる季節が過ぎて、あーみんないなくなったな、と思うと新しい季節が来て。
たくさんの生と死のつながりの中にいる自分。
その中にある原始力。
オポが犬としての本来の姿を取り戻す中で、この力をつけてきたことを感じる。


人間がびっくりするほどのダニーさんのおみやげがあっても
「ダニがつくからもう山を歩くのはいやだよ。」とはいわない。
「ダニがつくから山にいくのは止めようね。」というのは人間の方だものね。

虫の音を聞いて原始の力を取り戻す時間は、ただ感謝して受け取る自然の贈り物なのだ。
短いこの季節をただ感謝のときとしよう。

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Posted in 日々のこと, 自然のこと