グッドボーイハートは人と犬が共に成長して調和することを目指すドッグトレーニング・ヒーリングスクールです。

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<日々のこと>自然環境にダメージ与えた事に気づき引き返したこと

今年の草刈りのシーズンは特別な季節になりました。

山と向き合って草と戦って13年目の今年、ある間違いに気づいたからです。

間違いとは一作年から山の一部に使った除草剤のことです。

犬が歩く山だから除草剤は絶対に使わないというルールで10年以上頑張ってきました。

でもこの2年ほど福岡での訪問レッスンで時間が過ぎていき、七山に来たときには預かり犬ちゃんたちのお世話に時間を使いました。

結果、七山で草刈りをする時間が減ってしまい雑草は生え放題になり手に負えなくなってしまいました。

そんなとき「生えている草だけを枯らして根は殺さない、環境に影響をあまり与えない除草剤」があることを知りました。

除草剤もずいぶん進化したのだ、ペットや子供にも優しいものも商品化されている、これなら犬が歩かない場所につかっても大丈夫かも…。

そう思って歩行場所ではない裏などの一部に除草剤を使いました。

そして今年裏庭や山に登る周辺を見渡しているときに気づいたことがありました。

違う、いつもと山の、庭の風景が違うのです。

これまでなかった草が生えている。

あの背の高い草は都心によく生えている、駐車場に生えている草だ。

その背の高い草がたくさん生えている部分には今までなじみの風景だった野草や雑草が生えていないのです。

除草剤を使った部分はとくに環境の変化が激しく、毎年見てきた風景とは違うと気づき愕然としました。

自分が深く考えもせずにやった些細なことが環境にダメージを与えたのです。

土が変わってしまう…どうやって引き返したらいいのだろうか…。

しばらくその風景を見つつぼーっと考えました。

そして決めたのです。

街中で見慣れた、でも七山にはふさわしくないその草を取り去ることを決めました。

草を刈ると雑草はますます強くなってしまうので、特定の草を目標に根から抜き取ることにしました。

たくさんの草の中から特定の草だけを抜いていく作業、気が遠くなるほど大変な戦いが始まりました。

敷地面積は何百坪もありはいつくばって草を抜いていく作業を30分でも1時間でも繰り返す、取り戻すのはこれしかないからやるしかない。

数日の草抜きのあと4日後の今日また庭を見回りました。

風景が変わっているのです。

駐車場みたいだった庭にもともと自生していたあの草たちが芽を吹き出して戻ってきたのです。

再び生えてきたあの見慣れぬ草をまたはいつくばって草を抜いていきます。

これを繰り返せば元の庭と山に戻せるかもしれないと少し安堵しました。

自然の中に人工的な操作をするときにはその力の影響の強さを考える必要がある。

ずっとこのことを学んできたのに自分の足元から負けてしまったことに猛烈に反省しました。

人の操作は自然なものを管理して維持しつつそこから恵みをもらうなら良し、でも力を使い過ぎて自然そのものを破壊してしまうなら自分を破壊するのと同じことです。

自分の間違いに気づいて早く引き戻すことでなんとか破壊を止められそうです。

そしたら戻ってきた本来の草たちといつも通りの戦いが始まるだけです。

自然と共には甘くない、毎日が戦いそしてお互いに強くなれます。


 

Posted in 日々のこと, 自然のこと

<お知らせ>GoodBoyHeartインスタグラムを公開しました!

ある生徒さんから「インスタしないんですか?」と軽く質問されてしまいました。

インスタグラム、使っている方がいるのは知っていたけれど新しいものには乗り遅れて古いものが好きな自分は少し苦手でした。

グッドボーイハートが伝えたいことは対面のレッスンで、そして追加情報はブログで十分。

写真を撮影しなければと意気込むのも大変だと思い敬遠していたのです。

でもこのたびインスタグラムを公開しました。

写真で伝わることがあるなら、それでもいいか。

本当に犬の体がリラックスしていて、豊で満たされているのはやっぱり自然の中、土の上、風を感じるとき、緑の臭いを嗅いだときだから。

そんな姿を見て誰かが何かを感じればいいのか、簡単に考えるようにしました。

アドレスは以下のとおりです。

https://www.instagram.com/goodboyheart/

初めてのinstagram。

本当に分からない事ばかりですが脳の老化防止と思って少しずつ写真をあげてみます。

失敗ありの挑戦なのでご容赦いただきつつ、時々ご覧になってください。

グッドボーイハートの広場であそぶシュナウザーちゃん

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<犬のこと>人の「犬が可哀そう…」が本当に「可哀そうな犬」にしてしまう

犬に対する人の「犬が可哀そう…」は本当にかわいそうなのか?

犬との接し方や、イヌへのトレーニングを説明する際に、たまに飼い主さんが口にする言葉があります。

「犬がかわいそう」という言葉です。

みなさんはどんな時に「犬がかわいそう」と思うのでしょうか。

こんなことがありました。

柴犬を室内で飼っている方と話していたときのことです。

「最近は柴犬を室内で飼う方が増えていますね。

でも庭でつなぎ飼いの柴犬もまだ結構いますよ。」と私が話すと

「外で飼うなんて…犬が可哀そう。」と言われたのです。

外で犬を飼うことが、犬をつないで飼うことが、可哀そうと思ってしまうのはなぜでしょうか。

他にも犬を必要以上に抱っこしないでくださいというと

「犬を抱っこして可愛がらないなんて犬が可哀そう…」。

上の二つの例にあげた内容は私はどちらも「犬が可哀そう」とは思いません。

ここには私とその方との犬に対する価値観の違いが出ているのだと思います。

ではここでの「犬が可哀そう」の意図はどこからきているのでしょうか。

その「犬が可哀そう」は理論的に説明できる動物の福祉に反する行為なのか?

「犬が可哀そう」を議論するときに感情論を外してくれという方が酷であるということはわかっています。

だとしたら犬が可哀そうと思う根拠を自分なりに整理してみるということをお勧めします。

例えば犬にくつをはかせることはどうでしょうか?

犬の脚が汚れたら可哀そう、だから犬に靴を履かせるのか。

犬がはだしであるけないなんてかわいそう、だから犬には靴を履かさないのか。

一部の方にとってはこんな質問は愚問だと思われるかもしれませんが、

現在の価値観の多様化の中ではこんなことすらもお互いの価値観を明確にする必要がでてきました。

この議論の際に、絶対に外して欲しくないことが「動物の福祉」という観点です。

「動物の福祉」とは「動物の愛護」のことです。

人間の福祉と同じように、動物もまた彼らが生きる中で不当な扱いを受けることを避けなければなりません。

動物の福祉はみなさんが美味しいと口にしているステーキになる牛肉や唐揚げになる鶏にすら求められるものです。

生きている間は、動物として生きる権利を動物たちももっている、それが「動物の福祉です」

この動物の福祉を論じるにあたっては「動物として」というキーワードに注目して考えていきます。

本当に「犬が可哀そう」なことを真剣に考えよう

動物として…。なんと深いことばでしょうか。

つまり、犬として生きる権利を守ることが犬の福祉なのです。

犬として生きるとは「犬の習性を尊重する」ということなのです。

では犬の習性とは何か、犬の飼い主はどのくらいこのことを理解しているでしょうか。

犬は習性として靴を履いて歩いたりはしません。

犬の脚ははだしで歩くことでその機能性が発達且つ保持されます。

ただし、犬の脚指はコンクリートやフローリングの上では歩くことが不快となります。

犬の脚指は地面に食い込むようになっているからです。

これが犬の歩くという習性です。

この犬の習性を尊重しない接し方や飼い方こそ、本当の「犬が可哀そう」な状態です。

では犬をつなぎ飼いするのはどうなのか?

犬という動物をつないで飼うというのは決して犬を完全に尊重した飼い方ではありません。

ただ同時に犬を室内に閉じ込めておくことはどうなのか、これもまた犬を完全に尊重した飼い方ではないのです。

ではどうすれば犬が可哀そうでないのか。

今この国内の環境の中で、犬を本来の習性を維持させながら人との暮らしを実現するというのは無理難題です。

できることといえば、犬を適切に環境を管理しつつ犬の習性を実現できる時間を50%から70%へと引き上げていくただそれだけしかできないのです。

日々の生活の中で犬がどれほど犬として尊重される時間を過ごすことができるのか、それを図っていくしかありません。

犬に対してしていることのひとつひとつ、それが本当に犬にとって可哀そうなことなのか、それともただの感情論なのか飼い主であれば一度は自分に問うて欲しいものです。

地面のにおいつけをするきいろちゃん

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<犬のこと>柴犬や豆柴が高値で取引?犬の価格は犬の幸せを決めない

柴犬や豆柴が高値になっているらしい

学生時代の友人から犬を飼おうと思っているの…と連絡がありました。

友人が言うには「ペットショップに見に行ったら豆柴が75万円で売られていてビックリした」とのことでした。

いつか犬と暮らしたいとペットショップ通いをしていた友人は、最近の急激な犬の価格の変化に驚いたのでしょう。

豆柴を買いたいという人がいて売りたいという人がいることでビジネスが成立しているわけですから、希望者が増えればオークション形式で価格が上昇するのは仕方のないことです。

ただ事実として言えることは価格は自分の購入者の満足度を上げるものであって、ものの価値を決めるわけではありません。

ものとはここでは犬のことなので、犬をものと置き換えるのには抵抗がありますが売買されている以上仕方のないことです。

しかし犬を買ったときが頂点ではなく、犬との暮らしは犬が自分の家に来た瞬間から始まるのです。

大人しい柴犬は注意を払う必要がある

本来の柴犬はやはり飼い主にはなつくが他人にはなつかないという性質でした。

この比較的難しい性質を持つ柴犬という犬が、ここまでペット化して売られるようになることになろうとは、昔ながらの柴犬を知っている人なら想像すらしなかったでしょう。

この柴犬の性質の特徴から飼いならすのがなかなか難しいところもありましたが、この頑固な性質が好きで柴犬を飼っている方もいたのです。

でもいまや柴犬は、誰にでもなつく大人しく他の犬にあってもぼーっとしているそんな犬になりつつあります。

全ての柴犬がそのように変化してきたということではないのですが、そういう大人しい性質を持つ柴犬が増えてきたようです。

ところが、この大人しい柴犬は本当に大人しいわけではありません。

大人しいのではなくただ行動ができないだけなのです。

たとえば他の犬と友好的にコミュニケーションをとるのではなく、あまりコミュニケーションをとらない行動パターンになります。

関心がないように思えるのですが、行動のパターンが抑えられているだけです。

本来の闘争行動が表現できない分、葛藤行動が多くなります。

葛藤行動は表面的には行動にでないという状態が継続するので、普通の人が見てもなかなかわかりません。

長い間の葛藤は、いずれひずみを生みパニック行動や破壊行動、興奮行動となって不規則な行動パターンとして現れることがあります。

そうなったときはご褒美や罰を連発せずに、すぐに行動の専門家に相談してください。

そもそもが大人しい柴犬として飼われていたわけですから、ご褒美や罰でなんとかなりそうですがそうもいきません。

飼い主さんの理解と協力、根気と謙虚な態度が柴犬の行く先を決めることになります。

犬の値段が犬の幸せを決める訳ではない

高値の柴犬に限らず、どんな犬であっても高い値段でかったからよかろうというものではありません。

そもそも犬の値段はドッグショーという趣味の世界で高値が決まるようになりました。

ドッグショーを見たことも行くこともない人が、なぜ高値の犬を飼う必要があるのでしょうか。

もしドッグショーに自分の犬を出す趣味にはまっているのであれば、高値の犬を飼ってドッグショーに出し、犬を繁殖させて販売するということもあるのかもしれません。

その上犬の販売には許可が必要なので続けることは業者ではければできません。

でも、あなたがただ自分の家族として犬を迎えて共に楽しく豊かに暮らしていくことを望んでいるだけなら、犬の値段を考える必要はありません。

犬に値段のつかない保護犬を迎えることでも犬との暮らしは豊かになれます。

純血種という名前のついた犬を飼ってみたいのであれば、もちろんそれでもかまいません。

ただ、犬の幸せを決めるのは犬の価格ではなく、飼い主が犬のことをどれだけ理解しているかということです。

つまりは、飼い主が犬のことをどれだけ愛しているかということなのです。

梅を食べてあそぶ黒柴ちゃん

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<クラスのこと>お預かりクラスの後の訪問レッスンで犬の変化を生かすこと

梅雨時期のお預かりクラスでしたが、まとまった雨とまとまった曇りの時間で休憩と活動を繰り返して上手く調整できました。

お預かりクラスから帰宅した犬ちゃんたちが自宅でどう過ごしているのかいつも気になるところです。

今回はタイミングよくお預かりクラス直後に数頭の犬ちゃんの家庭訪問レッスンに伺うことができました。

まだお預かりモードが続く中で、今このタイミングでココとココを強化したいという気持ちが強くなり飼い主さんに対してついプレッシャーをかけてしまいます。

しかし案外このプレッシャーに答えようとして下さる飼い主さんが多いので驚きです。

日々熱心にレッスンを受けている飼い主さんたちは、犬の行動観察能力が高まっています。

飼い主の観察能力が磨かれているため、お預かりクラスから帰宅した犬が「いつもと何か違う」ことに気づかれるようです。

「クレートに入ったあとの吠えが減った」

「以前よりベッドに上がるようになった」

「リードの引っ張りが少し緩い」

などなど、犬によってその行動の変化は様々です。

犬たちもお預かりクラスで若干の行動の変化が起きているですから、冷静になればそれを見ることができるのです。

お預かりクラスは単純にいえば、いつもと違う環境で過ごしたというだけのことです。

その中には空間の使い方、テリトリーに関して、人の接し方、自然環境など様々な刺激があります。

与えられた環境と同時に失った環境というのがあります。

それが飼い主という存在なのです。

お預かりクラスでは「飼い主という存在を失った犬」の行動を見ることができるのです。

そのときはじめて、飼い主が犬にどれだけの影響を与えていたのかを見ることができます。

犬の飼い主に対する執着が強ければ強いほど、失ったときの行動の不安定さは大きい。

犬の飼い主に対する依存や甘えが強ければ強いほど、また失ったときの行動の不安定さは大きいのです。

それは振り子の触れるように、大きく逆側にバランスを崩すという形で表れてきます。

一旦バランスを崩したように思えるときに、はじめてバランスを取り戻そうとします。

その取り戻し方をサポートしているのがお預かりクラス時につくっている環境、そして管理、接し方です。

お預かりクラスの後に預ける前と全く同じようにいきなり犬との距離を近づけてしまうと犬は以前よりももっと不安定になってしまいます。

客観的に考えればわかるようなこの原理も、犬に対する感情が先走ってしまうと何も見えなくなってしまいます。

犬に対する愛情は過ぎれば何も見えなくなります。

犬を育てることのできる環境とはあくまで犬を客観的にみる目を持ち続けることです。

飼い主として一番難しいこと。

でも飼い主として一番大切なことです。

預かりクラスで対面する犬ちゃんたち

Posted in クラスのこと, 犬のこと

<クラスのこと>月日と共に緩やかに変わる犬の姿と行動を見逃さない

毎月トレッキングクラスを受講しにきている犬ちゃんといっしょにトレッキングをしました。

もう数年この七山で犬ちゃんの姿を見ているので、少しずつ変わる山の景色といっしょに犬ちゃんの成長も見てきました。

少しの時間だと変わったような変わらないような犬の行動も、長い月日の中でみるとずいぶんと変わったな、大人になったのだなと感じられるようになります。

犬と人は一緒に暮らしているのに流れている時間の幅がずいぶん違います。

若かった犬があっという間に年を取ってしまうことも仕方ありません。

犬は3才で30才くらいの大人なのに、人は3年経つてやっと仕事ができるようになるくらいなのです。

人が毎日をだらだらと過ごしているうちに犬はアッという間に成犬になり、中年になり、そしてシニア犬になっていきます。

犬は人の7倍の速さで生涯を生きていきます。

犬にとっては当たり前の時間が、人にとっては足りないと思ってしまう。

犬は10年しか活動期間がないのです。

その10年の間のどのくらいの犬としての社会的な時間があるのでしょうか。

週に1回でも月に1回でも、ゼロではありません。

トレッキングに来てくれた犬ちゃんは毎週のように飼い主さんと山歩きに出かけているそうです。

若いときは歩けたところが難しくなってきた。

前よりも探索して堂々と歩けるようになった。

尾歩山ではこれまでできあかった排泄が適切にできるようになり飼い主さんとの距離感も良い感じになってきました。

時間をかけてできるようになったことこそ、本当の成長だと思います。

時間をかける価値のあることなら結果ではなく経過に価値があります。

かけた時間の分だけ犬にとっては価値のある時間だったということになります。

だとしたら飼い主にとっても価値のある時間であったはずです。

こうして過ごした時間は記憶に深く残り思い出の日々となっていきます。

犬とのトレッキングはそんな時間になりえるのです。

共有する場所、共有する時間、そして共有する感覚。

共感とはそんなことではないだろうかと犬ちゃんと飼い主さんをみながら感じました。

トレッキングの中、山頂で休憩するクールくん



 

 

Posted in クラスのこと, 犬のこと

<クラスのこと>お預かりクラス&トレッキングクラスで黒柴ちゃん対面

福岡も梅雨入りしたようですが、雨は降ったり止んだりで梅雨本番はこれからというところでしょう。

まだまだトレッキングに参加される元気な犬ちゃんと飼い主さんがグッドボーイハート七山に来てくれました。

ちょうどお預かりクラスを利用している犬ちゃんと同じ犬種。

よくみかけるようになった黒柴ちゃんたちです。

ところがこの2頭どちらもメス犬なのに、サイズは倍くらい違いがあります。

同じ犬種とは思えないサイズ、そして気質的にもかなり違いがあります。

血気盛んな若い年齢のメス犬ちゃん同士のマーキング合戦。

どちらも人がそばにいてということが前提でのやりとりのようでした。

落ち着かせが終わったところで、いっしょに山歩きをしました。

さきほどは火花の散りそうだった2頭の犬たちも、山中では野生動物の気配に集中していきます。

外敵を見つけると結束する同種の習性のセンサーが働いたようで、仲良さそうにいっしょに山歩きを終了しました。

貫禄のある余裕の歩きを見せる大きな黒柴ちゃんに対し、はじめのトレッキングで興奮高く衝動的な小さな黒柴ちゃん。

どちらもそれぞれに学びの時間があったようです。

トレッキングクラスはプライベートで飼い主さんと関係を作るのが中心で、気の合いそうな犬ちゃんとは複数でトレッキングします。

多数のトレッキングは今はあまり開催していません。

限られた時間だから飼い主さんとの関係が少しでも進むようにと堅実なクラス開催を中心にしています。

私はオポと何度も繰り返しプライベートトレッキングでした。

繰り返し繰り返し。毎回楽しく学ぶことがたくさんありました。

新しい刺激がなくてもいい、場に慣れてきてからが学びの本番です。

黒柴ちゃんたちのトレッキングクラス

Posted in クラスのこと

<オポのこと>カラスが休んでいた場所にあの日オポもいた

先日のブログに書いたトレッキング中に出会った山にうずくまるカラスのこと。

<自然のこと>野生動物にもある仲間意識が消えゆく犬たち

このときに鮮明に思い出したことがあります。

ああ、あの時にオポも傷ついたカラスが休んでいたこの杣で一日を過ごしたのだということを思い出ました。

オポが12歳の時のことです。

ある夜にオポが不調の状態となり、嘔吐を繰り返し室内にも戻ってきませんでした。

嘔吐の中には血液もまじり、何か体から出したいものがあるけれど出てこない…そんな状態で土の上に腹をつけて一の字でじっとして動かなくなりました。

そばでじっと様子をうかがっていましたが、明け方4時くらいに寒くなり私は部屋に入っていました。

夜が明け始めるとオポが私のところに来てまっすぐと立って私を見つめつつ体重を少し後ろ脚にかけています。

私がたちあがるとオポも動き出し、山に行くのだとすぐにわかりました。

着の身着のままでまだ冷えの残っていた山に登るオポの後について登りました。

なんども下血しながら息を切らしながら山を登るオポ。

黙ってオポのうしろをついて歩きます。

そしてついた山の杣に伏せるオポ。

やはり腹をしたにして一の字になってじっとしています。

結局夕方までここから動かず…。

夜には家に自力で戻りました。

数日後には食事をとるようになり12歳の波を超えたのです。

あのオポが癒しを求めた場と同じ場で、カラスも癒されていたのだと知って「なぜ同じ場所なの?」と不思議に思いました。

私たちが知らない何かを動物たちは知っているのかもしれません。

本能というものなのでしょうが、本当に自分にとって必要なものなのでしょう。

自分はまだそれを知らないような気がする。

そんなことも知らずに死んでいく人間に飼われている犬たちが幸せになるのだろうかと深く反省します。

とりあえずは日々の果たすべき役目を果たすのみ、その積み重ねが脳の奥にある気づきを目覚めさせてくれると思うしかありません。

その後カラスは姿を消しました。

元気に飛び立ったのか、新たな世界へ旅立ったのか、そんな思いで犬たちと山歩きを続けます。

尾歩山のテント場で休むオポ

Posted in 自然のこと, オポのこと

<自然のこと>野生動物にもある仲間意識が消えゆく犬たち

犬たちとトレッキングクラスで尾歩山を歩いていたときのことです。

木々の上からガアガアとカラスの威嚇する声が聞こえます。

あきらかに「こっちにくるな」という低い鳴き声で数羽が私たちに向かってないています。

動物の死骸とかゴミかなにか餌でも持ち込んでいるのかと思って少し進むと、数m先に木の根元にうずくまるカラスを発見しました。

羽ばたきをぎこちなくして数メートル移動したが、明らかにケガをしている様子でした。

体を休めている傷ついたカラスに近付くなと仲間のカラスから威嚇されたのでした。

ケガをしたカラスが少し脇に移動してくれたので、わたしたちは犬を連れてそのまま山道を通過しました。

犬たちもカラスを追う気配を見せなかったので仲間カラスの襲撃を受けることはありませんでした。

それにしても、野生動物たちの群れの仲間意識の高さには驚かされます。

カラスといえば都会のごみ捨て場ではごみを奪いあっているカラスの姿しか見たことがなく、こんなに仲間意識が高い動物だったのかと感心しました。

自然環境の中では敵が多く、同じ種同士は結託しなければ生き永らえないのでしょう。

またゴミなどの資源を奪いあうよりも、力を合わせて大物を狩ることで食べ物を得ているためより仲間を必要とするのでしょう。

イヌ科動物も人が犬に関与するまでは犬同士が守りあう存在だったのでしょうが、人から餌をもらうようになってからは餌やテリトリーを奪い合うように変化してしまいました。

犬同士が本当に力を合わせるという姿を見ることはなかなかありません。

それでもトレッキングクラスの最中は野生動物に対しての恐怖からかグループ制が少しだけ高まります。

梅雨入りまでカウントダウンですが、梅雨の合間も社会性を育てる機会を山歩きで作っていきましょう。

 

Posted in 犬のこと, 自然のこと

<日々のこと>懐かしい犬の面影を鮮明に思い出すとき

グッドボーイハート七山に戻ってポストを開けると一枚の封書が入っていました。

16歳で他界した犬ちゃんの飼い主さんからのお手紙でした。

旅立ったその犬ちゃんの姿や動いている映像をはっきりと出しました。

あんなこともあった、こんなこともあった。

それは16年前に講師として勤務していた専門学校でのことでした。

当時、とても真剣に学んでいた生徒たちと共にシェルターワーククラブという活動を始めました。

保護犬を福岡市の動物愛護センターから引き取り、生徒たちが飼育管理して飼い主さんに譲渡しようという活動でした。

賛同の意見もありましたが、多くの反対意見ももらいました。

犬を育てる環境としては決して良くはない。

でもこの目の前にいる学生たちがこの活動を通して学ぶことができるなら、きっとこの学生たちが将来動物の仕事についたときに、多くの動物とその動物に関わる人の助けになるだろう…

そう思うと気持ちを止めることができませんでした。

そしてはじまったシェルターワーククラブの第一号の犬ちゃんを福岡市の動物愛護センターから譲渡して受け入れました。

今は一般の人でも譲渡できる施設の犬たちは当時は譲り受けることすら難しような状態だったのです。

当時を知る人こその語れる話です。

初めての試みにミーティングを繰り返す日々でした。

学生たちは真剣に犬のお世話をしていました。

アルバイトや自分のやりたいことを削って、犬のお世話のためにたくさんの時間を使ってこの活動やこの犬から何かを学ぼうとしている姿勢を受け取ることができました。

そしてついに、その第一号のシェルターワーククラブ卒業犬を家族として迎えていただく日が来ました。

その日からその子が亡くなる日までの長い長い月日を、家族として大切に育ててくださった飼い主さんのお手紙を拝見して、どんなに愛されて育ったのかと感謝の気持ちでいっぱいになりました。

シェルターワーククラブという活動が社会に何かの影響を与えることなどありません。

活動を通して影響を受け、成長することができたのは私を含むクラブ活動で成長した学生たちの方です。

犬との出会いはたくさんのことをわたしたちに教えてくれます。

特に何年経っても鮮明に思い出す犬は私にとって大きな学びであったと思っています。

彼もそんな犬でした。

ビスコ。ありがとう。

もう一つの世界でオポと再会したらよろしく伝えてね。

七山の尾歩山山頂で休むオポ

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